気がついたら8月になっていた。

2021/08/01 日曜日。 東京の新規感染者数は急激に増加しているものの、どうしてもビリヤニが食べたくて仕方がなく、新橋へ向かった。暑いなか駅まで・駅から歩行する気怠さ、感染リスク、ビリヤニに対する衝動、Uber Eatsでも購入可能な他のビリヤニへの期待値を自分の中で足し算引き算していたが、ええい、

食べたいは食べたいでええんや

という心の中の尾白アラン北信介背中を押され出かけることにした。 ひとりでご飯を食べに行くだけで、ぼくに対して何かしらの感情を持ち合わせるような人とは出くわす確率は極めて低いのに、きちんと髪の毛をセットしてコンタクトレンズもつけて出かけようとする自分に心底驚いた。ビリヤニやさんの店員さん(おそらくインドまたはネパール系の国出身と思われるが、非常に英語・日本語が流暢でいつも驚嘆している)とは顔見知りになってしまったので、少し気にしないこともない。が、髪の毛をセットせずともメガネを掛けていても認知される以上も以下も何もなく、感情は発生しない。いつもチキンビリヤニとラッシーを頼み一般的な顧客よりも速いスピードで食べ終わってすぐに帰っていく客、だという認知が再生産されるだけ。

自分で自分のことを大事にしてあげる、というとありきたりで陳腐な表現な気がして嫌だが、自分が自分の容姿は嫌いでも、自分が自分のことを少しでも好ましく思うことができるために自分になにかしてあげよう、と思っている自分に気が付き驚いていたのだった。

合理的に考えればそれ(髪の毛のセットとコンタクトレンズの着用)はただのお金の無駄なのだが、なんでかな、少しだけ自分のことを好きになれつつあるのだろうか。完璧に好きになることは無理だと思うけれど、自分にとって心地よい状態を探ることには習熟してあげたい自分は存在する。そういう自分を発見することも人工的な自己肯定のひとつのパターンとみなせるのだろうか。

ビリヤニは見た目と味の相関があまりなく(過去の食経験と一致しないの意)、これまでの経験則を覆してくれる食体験だから好きだった。ただビリヤニも今となってはぼくの好物の一つで、ぼくにとって日常になってしまったので、その新鮮さはもう得られない。その分辛めにしてもらうことで、胃の中をポカポカさせて、自分をびっくりさせる作戦を取ることにしている。すごく辛くて泣いてしまう。 泣きながら食べているぼくに店員さんは

「辛すぎた?」

と聞いてくれるのだが、必ず

「おいしいです、丁度いいです」

と答えてしまう。

食べたあとは一日中お腹が温かいので、ビリヤニがいるなあと思いながらビリヤニと共に一日を過ごすことになる。違う国を自分の中にぶち込んで、血肉にし、新たな一日を生きるのだ。

ビリヤニを食べたあとは直帰し本を読みすすめた。 胃が満ちたりて、電車に揺られ微睡むときのあの心地よさは何なのだろう。好きな食べ物を好きなように食べて、コーヒーを飲んで、午後の活動に備えるためのエネルギーを消化によって引き出そうとしている身体感覚。普段極めてネガティブに振れている自分でさえ

「ふはは、余は満足じゃ」

と心のなかでつぶやいてしまうような、そんな些か傲慢な幸せを噛み締めてしまったりする。