ここ数日怒りについてばかり記述していたので、今回は違う感情について記述してあげることにする。 今日はぼくが好きなことについて書きたい。

怒りについてつぶさに記述することを試みていたら、サラダ記念日も、七夕も過ぎてしまった。最近なんだか1日も1ヶ月も1年もあっという間に過ぎていく。

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」

自分にとっての日々の新鮮さが損なわれていることを切に感じる。かといって新鮮なインプットを大量に摂取できるほど体力の残量は多くなく、何を大事にするかが問われているなあと思う。

時間の使い方、住環境、人間関係が人を作るとか何とか。キラキラしたビジネスアカウントが言っていた。生産性を高めるには、仕事で成果を上げるには、モテるには、金を稼ぐには、そんなハウツーめいた成分ばかりが浮遊していて息苦しい。会社で生きていくためには常に成長とか、生産性とか、社会が一方的に自分に向けるわかりやすい評価指標でのみ測定され続け、その基準に合致することばかりが求められているように感じる。そんな一般的な評価の枠組みから外れたところ、自分にとって大切な世界で、自分の価値を見出したい。素敵と思われたい。素敵と思われたい? でも素敵と思われたいという感情すら、自分ではない他が設定した基準に合致することを自ら望んでいるという意思の発露と捉えられるのでは? 自分が会社では嫌だと思っていた枠組みに、自分が自由になれるかもしれないと思っていた領域でもハマっているのでは? そんなことネチネチ考えずに楽しいことは楽しい、嫌なことは嫌、辛いことは辛い、でいいのにね。

「細かいことはええねん!!」 「感情に理由は要らん!!」 「うれしいはうれしいでええんや!!!」

「ふはは!」

「何笑とんねん!!」

「せやな」

ハイキュー、31巻で尾白アランと北信介もそう言っている。

自分の時間をどのように配分してどのように使うかは自分の意志次第、ということは理解している。とはいえ、その判断基準は自分がこれまで二十数年生きてきた中で培われたものであり、これから新規の価値観をインプットしたり、新たな習慣をこしらえることは非常に労力を要するということも同時に理解している。 そんな中でも足掻きたい気持ちはある。 そういう行動を引き起こすためのインプットにも、堕落するためのインプットにもなるのがTwitterの面白いところでもある。偶然と必然とが意図せぬバランスで自分に押し寄せているなと感じる。(Twitter社の意図が無意識にインプットされているのかもしれないという可能性も否定できないが) いろいろ頭の中では考えるものの、ここ最近、仕事をしていない自分にとって心地良いことしかしていない。いつもどおりの活動、筋トレや読書や負荷の少ないインターネットサーフィンやらに時間を費やしてしまう。よくない。よくなくはないが、良くないと思っているなら良くない。

ぼくはもっと生産的な時間の使い方をしたいのに。と思うとともに、生産的って何? という疑問が生まれる。自分がもっと良質なアウトプットを作り出すためのインプットとなる活動、と定義するなら、筋トレも自分のパフォーマンスやホルモンバランスやら健康を保つために必要不可欠な営みであり、それを継続していることは何も責められるべきことではない。

でも、でも、今と同じことばかりしていたら自分の感性が少しずつ錆びていき、最も忌み嫌っている老害に近づくのではないかとビクついている自分が首をもたげる。

そうだ、今日は好きなことについて書きたいのだった。前置きが長くなった。

ぼくは人が書いた文章や奏でた音楽、作品から作者の考えていることを読み取ったりするのが好き。読み取れているかどうかの真偽が確かめられたらなお楽しいけれど、真偽が確かめられなくとも、こういう記述、こういう演奏をするということは、この作者はこういう人格なんだろうな。という領域を消去法で確定していくあの作業がとても楽しくてワクワクする。