心霊等ではないですが、ホラー的要素を含みます。


「ごめん。狭いけど、上がって」  靴を脱ぎ、先に立った彼が短い廊下を歩いていく。ほんの数歩の先にワンルーム。アイスグレーのカーテン越しの薄明かりに目を凝らしていると、窓際に辿り着いた彼がカーテンを引き、一気に明るくなる。とはいえ、私のいる玄関はぼんやりと暗いままだ。  私は三和土に目を落とす。左手に靴が数足、右手に段ボールを挟んでおく小型のストッカーがある。そこにはいま薄手のパックが二、三個挟み込まれていて、一番手前の差出人は著名な書籍通販サイトだ。左手には、備え付けらしき観音開きの靴棚があり、その上にもいくつか物があるが、この狭さでは戸を開くとほとんど何もできなくなる。棚の前に行儀よく並ぶスニーカーとローファーが、その推測を裏付けている。日ごろの彼を思うと、手持ちの靴の全てがここに出ているのだろう。棚の中にはたぶん、ガムテープやビニール紐、あとは掃除用品のストックとか。あるいは、まったく空かもしれない。  私はようやく靴を脱ぎ、彼が脱いだ横に揃えて上がった。水色のバレエシューズが、二回りほど大きな彼のアディダスの隣に寄り添っている。白のアディダスは手入れがしてあり色はきれいなままだったが、長く大事に履いているのか少々くたびれていた。物を大事にする人は、好きだ。ダメになったものを捨てるのが苦手な人は、もっといい。  そこまで思って、私は、もう一度棚の上を見た。鍵置きの小皿の横に、写真と、花瓶。鈴なりの青い花が生けてある。 「——さん?」  彼がリビングから、訝しげに声をかける。私は慌てて振り返り、廊下の先に出してくれていたスリッパへ、両の足を入れた。

蔵未君は大学の同期だ。学部は違うが、講義が被っている。私は社会学部、彼は法学部で、児童福祉に関する講義の初回、偶然隣になった。少人数のクラスだったから皆なんとなく席も固定され、自然、私と蔵未君も、いつも隣り合っている。蔵未君は真面目な学生で、講義中はずっと先生を見ている。私は、不真面目な生徒なので、静かにノートを取る彼の横顔を見つめている。垂れ気味の瞳や高い鼻。短い黒髪と、きれいな首筋。  初めて彼の顔を見たとき私は衝撃を覚えたが、それは万人に共通のようで、少し探れば彼が学内の有名人であることは分かった。事情通に聞くところ、スカラシップを取って入学してきたらしい。勉強熱心な様子から優秀そうと踏んではいたが、そこまでとは思っていなかった。スカラシップでの入学者は、決して安くは無い学費の全額免除を受けられる。もともと、この大学は、家の懐に余裕がなければ手に取りがたい選択肢だ。スカラシップは絶対基準で、該当者のいない年もある。  彼の身なりは、清潔だが、どちらかといえば質素であり、無礼と自分で思いながらもその噂には納得した。他に聞いたのは、文芸サークルにいること、バイトで家庭教師や古書店のスタッフなどをしていること、読書と映画と演劇が好きだということ。料理が得意、という話もあった。でも、いわゆる「浮いた噂」は、なぜか一つも聞かなかった。噂をしている当人たちが、首を捻っていたくらい。  具体的なことを思い浮かべていたわけではない。そうではないけど、相手がいないというだけで、少し気分が上がるのは確かだ。

今日は、彼の誕生日らしい。昨日、昼の講義のあと、彼の知り合いが去り際に「ハッピーバースデー!」と声を掛けた。それに片手で応える彼に、私は「誕生日なの?」と訊いた。彼は頷き、「正確には、明日なんだけどね」と苦笑いをした。明日は日曜で講義がないから、当日は誰にも祝われないと冗談めかす。  その場の勢いだった。私は、「明日、空いてるけど」と言った。 「よかったら、お祝いする? あ、ぜんぜん、暇だったらだけど」  彼は、目を丸くした。一瞬「まずった」と思ったが、すぐに彼は顔を明るくして、 「いいの? うれしい。俺も暇で。せっかくの誕生日なのに、つまんないなと思ってたんだ」  と、言った。それで話が進み、彼の家へ遊びに行くことになった。なぜかあべこべに、彼が料理を振る舞ってくれるという。私は、ケーキを買って向かうと約束し、最寄りの駅を訊いた。  待ち合わせ場所に現れた彼はいつも通りのシンプルな服で、でもそれなりに着飾ってくれているような気がした。着て行くタイミングに迷うまま仕舞い込んでいたワンピースをおろし、買ったばかりのバレエシューズを履いてきた私は、少しほっとした。ケーキの箱を掲げると、あ、そこの、と彼は微笑む。遠出したときに一度だけ食べた、また食べたいと思っていた、と。  彼のアパートへ向かう道すがら、商店街で買い物をした。青果店へ寄り、魚屋さんへ寄り、海外の調味料などを置いている個人商店へ寄る。彼が「どっちがいいかなあ」と食材を見比べるあいだ、私は一緒に悩むそぶりでそのじつ、今の私たちが、周りからどう見えているかということに気が行っていた。もしかして、良い勘違い——私にとって都合のいい勘違いを、してくれていないか。  アパートは古かったが、私の借りている部屋と大差はなかった。二階の隅、奥から二番目の部屋が、彼の家だ。  今、彼は廊下の左手にあったキッチンで炒め物をしている。パスタを作ってくれるのだそうだ。手狭なキッチンには、玄関と打って変わってさまざまな物が置いてある。背の高い彼にはまた一段と窮屈そうだが、どこかにぶつけることもなく、種々の調味料を取り出している。  にんにくの焼ける匂いが、オリーブオイルの香りと共に漂ってくる。お腹が鳴りそうで、私はこっそりクッションを抱いた。  部屋を見回す。物の少ない部屋だ。窓を背に、すぐ左にベッド、右側に机と本棚があり、キッチン側の壁にクローゼットがあるが、テレビの類いは見当たらない。私がいるのはローテーブルの前で、床にはラグが敷いてある。白い楕円のテーブルは折りたたみ式だった。普段はベッドの下にでも仕舞われているのだろう。  気になるのは、やはり本棚だ。時おり声を掛けてくるのへ返事をしつつ、ちらちらと目をやる。物の少ない部屋の中で、少し浮いて見えるくらいに大きな棚だ。小説が多い。出先で読むタイプなのか蔵書には文庫本が目立つが、単行本も少なからずある。ジャンルは純文学がほとんどで、ちらほらとSF、ミステリーもあった。なんとなく予想していたが、恋愛ものはまるで無い。 「できたよ」  不意に彼が言い、お皿を運んできた。私は彼へ目を移し、きゃあと歓声をあげる。 「美味しそう」 「ありがとう。口に合うといいんだけど……」  彼ははにかんで笑い、向かいに座った。お皿にはフォークだけが添えてある。どうやら、彼が作ってくれたのはペペロンチーノらしかった。主役はしらすと菜の花だ。オリーブオイルの深い香りはお店顔負けで、胡椒も削りたて。菜の花の苦みが湯気にのって漂い、じわりとつばが湧いてくる。  いただきます、と手を合わせ、さっそく頬張る。オリーブオイルで炒められたしらすと菜の花は、にんにく、鷹の爪、そして互いの風味を纏い、かつそれぞれの味わいを感じさせながら調和している。スパゲッティはもっちりとしつつ歯応えのあるゆで具合で、絶妙にソースをからめとる。立て続けに、二巻き、三巻き、夢中で口に運んでから、私は急に正気付いて顔を上げた。「蔵未君、お店開けるよ」 「ありがとう」彼は笑い、自分も一口頬張る。「うん。上手くできた」 「すごいね。ペペロンチーノって、こんなに美味しくできるもの?」 「食材がいいから。使った調味料も、もともと全部美味しいんだ」 「いや、でも、私には、こんなの絶対作れない。すごいよ。すごい」  下心抜きの感動だった。彼はやっぱりはにかんで、そうかなあ、と口元で言った。  しばらく、食事に専念した。というより、話題を探したくても、食べる手が止まらなかった。 「さっき気づいたんだけどさ」  皿の色が見えてきたころ、彼が口を開いた。 「今日って、母の日なんだね。お花頼んだのは前だから、それで済んだ気になってたな」 「母の日?」そういえば、と思う。郷里の母に宛てて、自分も焼き菓子の詰め合わせを贈っていた。 「ケーキの箱が入ってた袋に、チラシも入ってて。母の日にどうですか、って。当日でも宣伝するんだね」 「近くに住んでいる人は、持って訪ねに行けるからじゃない?」 「確かに」彼は頷いた。「日曜日だもんね」  会話しながら、私は、少し引っ掛かるものを覚える。玄関先のあの写真、——豊かな黒髪の、きれいな人が写っていた。その黒の柔らかな色や、垂れ気味の赤っぽい瞳はどことなく彼に似ていて、だからてっきり母親なのかと思っていた。でも、話を聞くに、お母様はまだ存命らしい。であれば、花など飾るはずがない。  だとしたら、姉か誰かだろうか。確証はないがそれも違う気がする。写真に写っている女性は確かに若いように見えたが、いまも若いというよりは、若い頃の写真という印象だった。写真自体が少し劣化していて、古びていた。服装も一昔前だ。  それに、——部屋に立ち入ったとき、僅かに頭をよぎったことを私は改めて拾う、——青い花。鈴なりに小ぶりの花を咲かせた茎の長いあの花を、私はどこかで見たことがある。似たような花はいくつもあるが、なんだったろうか。デルフィニウムじゃなくて、——  最後の一口を食べながら、考え込む。先に食べ終わった彼がお皿を下げに立ったそのとき、不意に、彼の携帯が震えた。彼はいまだに折りたたみ式の古い携帯を使っている。片手に皿を乗せたまま、空いた手で机の上の携帯を拾って彼は電話に出た。視線で私に断りながら。 「もしもし。若時さん?」  流しに皿を置き、彼が話し出す。私は聞き耳を立てながら、自分のスマートフォンを開いた。ブラウザを立ち上げ検索する。『デルフィニウム 似てる』……めぼしい結果はない。青い花、と足す。これも出ない。  デルフィニウムはキンポウゲ科らしい。検索バーにキンポウゲ、と打ち込んだそのとき、予測が並んだ。そのうちの一つ、予測の中では下位の結果に目が吸い寄せられる。  キンポウゲ、毒性。  胸が強く鳴った。私は、少し震える指先でそれを選択し、青い花、と足した。  検索結果をスクロールする。程なくして、目当ての花の画像。そしてウェブページ。キンポウゲ科の多年草。有毒植物。  トリカブト。 「届いた?」  彼の声が聞こえた。私は、ハッとして彼を見た。 「うん、そう。母の日でしょう、母さんに。……ああ、うん。きれいだろ。白くて小さくて、……病室に飾っておいて」  彼はその後、ひとこと、ふたこと交わし、電話を切った。その隙に、私は別のことを調べていた。彼へ笑顔を向けながら、冷や汗が背を伝うのを感じる。青いトリカブト。白く、小さな花。病室へ、と言うからには、おそらく入院しているのだろう。その母へ、彼が、贈った花。  きっとスノードロップだ。もう、そうとしか思えない。  彼は私の空いた皿も下げ、洗いながら話しかける、ケーキは、どちらをどちらが食べるかと。私は、今すぐに不自然でもいいから理由をつけて帰るべきか迷い、そのほうが恐ろしく思えて、ケーキだけは食べて帰ると決めた。向かい合ってフォークを立てながら、まるで味が感じられなかった。薄曇りの心地よい昼間、異様な汗が服を張りつかすのを、しかし、どうすることもできなかった。  食べ終えて、おいとますると告げる。彼は少しだけ寂しそうな顔をしたがそれは一瞬で、わかった、来てくれてありがとう、と言った。私は、改めて彼の誕生日を祝い、美味しいパスタのお礼を言って、あくまで笑顔で、玄関へ向かった。努めてゆっくりとバレエシューズを履き、そのあいだ、決して横を向かないようにした。手を振って、家を出る。  ドアが閉まる。鍵がかかる。私は、少し早足に、やがて躓きそうになりながら駆け出してアパートを去った。私が見たのは、贈ってはいけない花をまとめたサイトだった。以前にも一度確認していた。友人の入院見舞いに、菊以外のタブーの花を確認しようと思ったのだ。  サイトによれば、トリカブトの花言葉は「復讐」。スノードロップの花言葉は、「希望」の他にもう一つある。私は当時、トリカブトなんて、人に贈ろうと思うやついないだろうと思ったが、スノードロップのほうには驚いた。あんな可憐な花にこんな意味があるとは、間違って贈ってしまっても仕方がない。気をつけておこう、と。  存命の母の写真に、花を手向けて飾る意味を、深く考えたくはない。入院しているという人に、スノードロップを贈る意味も。

スノードロップの花言葉は、「あなたの死を望みます」。  自宅の最寄り駅に着き、強張った胃が俄かに解け、私は、路上にショートケーキを吐いた。


2023.05.14:ソヨゴ 蔵未の誕生日と「母の日」が重なるという不幸な奇跡があったので、誕生日祝いを書くことにしました。 祝うというより呪ってるけど、おめでとうございます、蔵未。