※作品のネタバレを含みます。

ダンサー・イン・ザ・ダーク」を見た。リンク先のWikipediaに物語の核心含めあらすじが記されている。

この作品は、一度も対面したことはないが謎のシンパシーを感じている友人(とぼくは思わせていただいている)からおすすめされて見始めた。多くの人にとって記憶に残る、印象的な作品として受け止められているという前評判はあった。悲しみや、怒りや、絶望が、魂が引き裂かれる瞬間が、歌や舞踊に昇華されるのは痛快だった。愉快ではないが。

Björk - Overture

なんて悲しい映画なんだろう。 悲しいという言葉では形容し尽くせない。悲しいという言葉を使ったのは、ストーリーに散りばめられた各種のできごと、主人公の置かれた境遇や特徴、受ける仕打ちが、各登場人物に対してことごとく理不尽に作用しているのを見て悲しいと受け取らずにはいられないから。単に悲しい話であるとぼくが受け取ったということに加えて、その悲しさによって登場人物や観客に対して絶望を味あわせようとしているような作為すら感じてしまった。 フィクションでよかったと思うと同時に、このような理不尽な仕打ちの類型が現在進行形で日本においても起きている。怒りと悲しさと絶望によって頭が真っ白になり、そんな世界を生きるお前は何ができるのだ、と問いかけられている。

もうこれ以上セルマ(ビョークの演じる主人公)に困難を背負わせないで、と思いながら、何度も目を覆いながらも、逃げちゃだめだと自分に言い聞かせながらも見た。

困難・理不尽・人間の汚さに対する激しい感情の動き。怒り・恐怖の表出としての歌・舞踏が描かれている。人を殺したあとにさえ、死刑執行の直前にさえ歌い踊り叫ぶ。 絶望の色のついた叫び、悲痛な叫び、あの叫びの演技でぼくの胸は引き裂かれた。なぜ、どうして、私は心から寄り添おうと、誠実に生きようと、しただけなのに、なぜ、なぜ理不尽が降りかかるの、絶望が生み出されるの、こんなにも困難な状況に陥らなければならないの、という叫び。

2000年公開の映画だがそこに内包されるテーマは2021年の今見ても全く色あせておらず、こうした状況が現実に発生しうる社会を生きている自分をまざまざと見せつけられる。「貧困」「シングルマザー」「障害」「子を遺すことの意義」「移民」「死刑」など、数多のテーマ・問題が描かれている。

素朴に思ったことは、「人をひとり殺しただけで死刑になる?」だった。これはぼくがぼんやりと抱いている日本における刑事罰の感覚値に当てはめると、という感想なのだが。

ことごとくセルマに二者択一を迫る。もうやめてよ、と思ってしまう。

自らの命(死刑判決に対する再審請求のための弁護士費用)とジーン(息子)の将来(先天性の弱視・失明を防ぐための手術費用)を天秤にかけさせる。セルマはジーンの将来を優先するが、死は怖い。周囲の人間にとっても死は怖い。セルマは自らの命とジーンの視覚を天秤にかけるが、周囲の人間はセルマの存在喪失(死)とジーンの視覚喪失を天秤にかける。周囲の人間は死を避けようと躍起になる。でも決めるのはセルマだ。

怖くて、歌うしかなくて。セルマに寄り添う子持ちの看守の存在がその悲しさを強調する補助線になっている。監視するものと監視されるもの。拘束するものと拘束されるもの。殺すものと殺されるもの。 先天的弱視・失明が遺伝すると知っていながら出産したセルマ。赤ちゃんが抱きたかったというセルマ。なぜセルマの夫は登場しない。なぜ宿命をセルマだけに背負わせる。生殖・出産は女性だけではできないだろうが、男はどこにいったんだよ、クソ。

自分に良くしてくれた家主たちの生活の平穏・秘密を守ることと、自らの行いを擁護することを天秤にかけさせられる。でも譲れない自分にとっての大事なものを守るために行動するしかない。大事なもの、大事ではないもの、大事だけれど相対的に大事なもの、大事だけれど相対的に大事ではないもの。 自らの証、つらい状況でも働き続け生きてきた証としての金が奪われるとき、そんな自分の中で理路整然と整理した意思決定により行動することはできない。葛藤にまみれ、怒りにまみれる。でも、その怒りを生み出すきっかけを作ったのは誰か。 みんな自分が大事なんだ、自分が大事で、他人も大事で。お前にとって最も大事なものは何なんだよ。そこにあるのは理論ではなく感情なのかもしれない。その感情は普段の理性的な自分の論理が染み込んだ直感としての感情かもしれない。

絶望、果てしない絶望、理不尽を前に潰えてしまいたくなるような絶望。絶望を前にしたときに登場人物に歌・舞踊を選択させることには異様な気配を感じる。音楽は救いたり得るが、生命が脅かされたり怒りにまみれているときに、ぼくは音楽を機能させることができるだろうか。低次元の生理的欲求が充足していないときに音楽を聴いて、音楽を奏でて、幸せに身を浸せるだろうか。