砂糖は麻薬(コカ)より依存性があり、甘みは幸せにすり替わる。あとひとつ、もうひと口と際限なしに手が伸びて、気づけばそれなしで居られない。舌で溶ければおしまいなのに、かりそめのものと知っているのに、記憶が渇望させるのだ。空になった器には、二度とお菓子は足されない。

その日、ホテルの部屋のドアを開け彼を中へと招き入れると、彼は僕を抱き寄せて首に触れ、「僕のため?」と言った。何のこと、とはぐらかせば身体を離し笑いかける。反らした首に振りかける仕草。  僕のパフュームを言い当てて囁く。「この香り、すぐに飛ぶだろう」  頬が熱くなった。僕の好きなこの香りはそれは複雑で軽やかで、他のどの瓶を重ねても再現できないものだけど、彼の言う通り二時間と保たない。彼に会うために付けたんだ。会った途端にばれるなんて。 「いじわる」僕はふいと目を逸らす。 「ごめんよ、いじらしかったんだ」彼は笑い顔のまま、左手に持っていた細長い紙袋を掲げた。「機嫌直して。君の好物だよ」 「ふぅん。なに?」 「チョコレート」持ち手を僕に握らせる。それから自身のこめかみをついた。「ちゃんと覚えてる」  彼は自分の振る舞いの意味がよく分かっている男だ。分かっているからいちばん初めに興醒めなくらい説明した。ムードがないのは百も承知で、それでも不本意に傷つけないためにそれは必要な過程だった。要するに彼はパートナーなど欲しくないのだ。重い感情も。いっときの遊びを割り切って楽しめる相手を探してて、そうじゃないなら悲しい想いをさせるだけだから、と言うのだった。本気で好きになられても、同じ誠実さで向き合えないのが初めから分かっていると。  それで僕は媚びを返した。「君を本気でモノにできるなんて、随分な思い上がりじゃない?」  彼は微笑んだだけだった。僕の卑怯など、お見通しだったに違いない。  彼が僕に買ってきたのは僕の好きなメゾンのショコラで、たしかに出かけた先で見かけるとここが好きだと指差したりした。一度彼に小さな箱を買って渡したような気もする。彼はいつだか、モノの味がよく分からないのだと僕に打ち明けてみせたけど(と言っても味覚障害じゃなく、単に価値の差がわからないということらしかったが。とあるホテルの朝食に出たお高い紅茶をひと口飲んで、彼は首をすくめながらそんな話をしたのだ)、それでも僕の好きなメゾンと好きなフレーバーは覚えている。  僕みたいな相手が、彼には無数にいるはずなのによくまあ覚えていられると思う。僕は薄々、彼は堅気じゃないんじゃないかと疑っている。それが反社会勢力なのか、私立探偵の類いなのか、それとも実は刑事なのか、僕には知る術がない。もしかして007のお仲間なのかな。ありそうな話。 「ああ。なんてかわいい!」  テーブルへ歩を進めながら紙袋の中を覗くと、淡い紫の細長い箱に白いリボンがかかっている。通常販売の品じゃないことはメゾンを知っているからわかる。そこで思い出したけど、そういえばそんな季節だった。そのものズバリの日付を過ぎてしまったから失念していたが、多忙な彼と当日に会うなんてのはそもそも無理だ。だとしても、僕がイベント事に目がないことを分かってて、外さず持ってきてくれる。紙袋に腕を入れながら、胸が満たされるのを感じる。舌に甘さが溶けていく。小さな砂糖菓子が、崩れる。 「八個入り? 一緒に食べよう」 「おや、いいの、独り占めしなくて」 「分かち合うのも喜びでしょう? 紅茶がいい、紅茶にしよう」  僕は箱を取り出して丸テーブルの上に置くと、スペースを区切るソファを回り込み、壁際のデスクへと向かう。そこには電気ポットやカップ、それから、ティーバッグやスティックコーヒーがたくさん入ったカゴがある。ダージリンのティーバッグを二つ選んで並べておき、まずはポットの電源を入れた。  いつの間にか彼はコートを脱いで後ろまで来ていた。デスクに手をつき、背中から覗き込んでくる。彼の体躯ではただ立つだけで僕を覆ってしまえる。 「僕を見ててもお湯は沸かないよ」照れ臭くて憎まれ口を言う。 「分かってる。でも他に見るものがない」 「テレビをつければNetflixが観れるけど?」 「そうなんだ。君を見てるより楽しい映画を教えてくれる?」 「さあ、知らない。だって君の映画の趣味は酷いものじゃない」  彼は喉を鳴らした。「違いない。分かった、邪魔しないよ」  僕の頬を少しつまむと彼はそのまま離れていく。去った気配と温もりが今さらに恋しい。この距離にいるのに?——自分で自分に苦笑しているとポットのスイッチがパチンとはねた。カップを温めるために一杯注いで、お湯を捨てる。

僕は彼の「いちばん」が誰か知っている。何年か前に会ったことがあった。  確か休日に街へ出たときだ。僕の買い物に、彼を付き合わせていた。もちろん僕は浮かれていた。彼が隣にいることが誇らしくない人なんている? でも、きっとそういう感情も、彼はうんざりだったろう。薄々分かったし、それは理解できた。嫌に決まっていると思う。関係する人する人に、〝素敵なクルマ〟扱いされて。  だから僕は僕なりに我慢をしてた。少なくとも、僕の内心が彼の鼻につかないように気を配った。うまくいってはいなかったとしても、彼は努力を買ってくれる人で、だから、する意味はあったはずだ。  あの子に会ったのは、そんな街中でだった。 「エドワード?」  次はどの店に行こうかと僕が路上で腕を組んだとき、背後からきれいな声がして、僕と彼は、同時に振り返った。そうしてその子を目にした時、僕は文字通り目を剥いた。対して、エドワードは驚きつつも、何の動揺もなかった。 「やあ、カート」 「お前をここで見るとはな」その子は春の霞みたいな声をしていた。「ご友人?」 「どうも」僕は顔に出さないように堪えるので必死だ。「そんな感じ」  ほんとうに驚いた。エドワードを初めて見た時も僕はものすごく驚いたけど、それはなんて言うか、あるとは知っていて、だけどほんとうにお目にかかるとは思ってなかった宝石を見つけた感じだった。だってこんなにも典型的な理想像が駅に立ってると思う?——二メートル近い背、逞しい体躯、甘いマスク、金髪碧眼——普通の人生を生きてたら、なかなか出会えるものじゃない。  でも、その子を見たときの衝撃は、また異なった。僕は真っ先に、こんな人、僕は〝知らない〟と思ったのだ。聞いたことも見たこともない、僕の知らない生き物だと。艶やかな黒髪、端整な顔、完璧な均整だった。なんてきれいなの? なんて青い目! 吸い込まれそうというよりも、のめり込みそうになる瞳。  何だか、現実味がなかった。少し、寒気がしたくらい。 「彼の買い物に付き合っているところなんだ」親しげにエドワードが言う。「君は何をしに?」  するとその子は気まずそうに唇を噛み、ぼそぼそと返す。「恋人に、プレゼントしようと……」 「何を恥ずかしがってんだい。彼女、誕生日?」 「いや、そうじゃない。ただ付き合って一年くらい経つから、記念にと思って」 「へえ」 「バカにしているな? お前は一年以上保った試しがないから分からないだろうが、」 「ええバカになんかしてないよ、ただマメだなって」 「ほら見ろ」 「なんでえ」 「もういい、分かってもらう気はない」打ち消すように手を振って、それからその子は僕を向いた。  僕は唾を呑みそうになった。さっきまできまじめな、融通の利かないカオをしていたくせに、僕をじっと見つめてくる目は池を覗き込むネコのよう。そして水面に息をしにくる哀れな小魚をつっつくように、彼はちょっと興味深げな光を走らせ、僕に言う。 「いやなやつだろう、コイツ? 早く愛想を尽かせるといい」  僕は何にも返せなかった。しばらく僕を観察したあと、その子は元のカオに戻ってエドワードを見上げ、別れを告げた。僕らが出てきたばかりの店にすたすたと入っていく。その背を見送って、僕は聞く。 「君の、大事な子?」 「うん」彼はまだ入り口を見ていた。「そうだ。僕自身より」  それを聞いて分かった。〝遊び相手〟になる前、彼がくどいくらい念を押した、そのわけが。  僕がどんなに想っても、僕は彼にとっての三番目以降にしかきっとなれないからだ。彼にとっての二番目は自分で、彼にとってのいちばんは、あの子。  そして彼は、あの子にとってのいちばんが自分であることを、少しも望んでなかった。彼にとって、たぶんそれは普通の感覚で、当たり前だとか思う以前の話だったのだと思う。あの子が彼女の話をしてるとき、彼はほんとうにやさしい瞳であの子を見てた。ウソや強がりで、あんな目はできない。  彼にとって人を愛するとはそういうもので、他の形は、よく分かってなかったんだろう。だけどどこかで自分の感覚が周りとだいぶ違うと気づく。自分がいちばんに想う相手に、自分のこともいちばんに想ってほしい、と思う人間が、随分たくさんいることにたぶん彼はとても驚いて、そして不本意な経験をたくさんして、あんなこと、わざわざ言うようになったのだ。そもそも彼は誰かの「いちばん」になる気がないから。いちばんに、しないでほしいと思った。

つまり、僕は彼にとって、だいぶ際どいやつだってこと。

四分が経って、僕はティーバッグを引き上げる。小皿に置いてそのままにし、カップ二つを手に取った。買ってきてくれたチョコレートはテーブルの上にあるままで、彼は結局イスに座って僕を眺めていたらしい。 「さあ、食べよう」  僕も席につき、カップを置いてから、細長い箱に手を伸ばす。  白いグログランリボンを解いて、箱を開ける。中には小さな正方形が四つずつ、二段に並んでいた。上に載っている説明書きをとり、広げて中身を読み上げる。僕、これはぜったいね、と真ん中のものを指差すと、彼は愛おしげに笑う。 「君のために買ったんだ。ぜんぶ、君のものなのに」  僕はチョコレートを凝視した。彼に今、目を見られたくない。八粒のチョコレート、もちろんこれは僕のもの。彼が僕のためだと言って、ぜんぶ君のものだという、いま視界に映ってる、つややかな八粒。  これが、ぜんぶ。 「ああ」声が震えないように、僕は祈った。 「なんだか、もったいないみたい。ずっと、このまま見ていたい」  彼はやっぱり、何も言わない。ただ長い腕が伸びてくる。大きな手が箱の端に届いて、右下の一粒をつまむ。なんの装飾もない一粒を、彼は僕の唇と唇の間に押し込んだ。そっと、滑り込ませるように。  僕は、それを舐め、噛み砕く。舌に広がる甘さと苦み。流れ出すフィリング、キャラメルの風味。 「溶けちゃうよ」彼は言う。 「食べなきゃ、もったいない」

砂糖は麻薬より病みつきになる。だけどお菓子は食べれば終わり、溶けてなくなる、ただ舌が、もう感じない甘みの余韻に震えるだけだ。幻は、長く残って記憶を焼く。思い出が飢えて渇望する。あと一回、もう一回、お願い、僕に優しくして。

ひと粒欠けたチョコレートを見つめる。ひと粒分の空っぽに、僕は、人差し指を入れた。


2022.2.22:ソヨゴ

エドワードとモブの話。