このイメージを、今僕がこっそりとやろうとしているように、紙の上に記してみたとしても、彼に敬意を表することになるかどうか定かではない。僕はこの男を平凡な人物として描き、彼の行為を文学へと変換しようとしている。それは名誉を傷つける錬金術でしかないが、僕にはどうしようもない。僕は、このヴィジョンを復元する試みもせずに生涯それを引きずっていきたくないのだ。僕はこれからこの奇想天外な物語に結局は理想化のメッキを施していくことになるかもしれないが、そのピカピカ反射する分厚いメッキの裏に、歴史的リアリティという傷箔のない鏡がなおも透けて見えることを、せめて期待したい。
(『HHhH』 12ページより)
月日が流れ、やがてそれは何年もの歳月になり、その間、この物語は僕のなかでどんどん大きくなっていった。そして、誰しも同じく様々の喜びとドラマと落胆と希望からなる人生が過ぎていく一方で、僕のアパルトマンの書棚は第二次大戦に関する本であふれていくのだった。
(中略)
とにかく何でも役に立つ、ある時代の精神を理解するにはその時代に浸りきる必要があるし、ひとたび理解の糸口がつかめたら、そのあとはおのずと繰り出されていくだろう、と思う。ため込んだ知識は、われながらぎょっとするほどの量になった。千ページ読んでニページ書くという計算になる。この調子だと、襲撃の準備の場面を書いているうちに寿命が来てしまうだろう。本来は健全なはずの資料を欲する気持ちがいくぶんか命取りになっているのを感じる。早い話、書くのを遅らせる口実になっているのだ。
(『HHhH』 30ページより)
歴史物語においては、過去の死んだページに命を吹き込むという口実のもとに、多少なりとも直接的な証言に基づいて再現されるこうした会話ほど人工的なものはない。文体論の観点からは、こういうやり方は修辞学で言うところの活写法に似ている。つまり、まるで読者の目の前で起こっているかのように生き生きと描く手法のことだ。たとえば会話を今によみがえらせることが目的のときなど、結果はしばしば強引なものとなり、得られた効果は期待していたものと正反対になる。手管があまりに見え透いているし、歴史上の人物の声を我がものとしようとするあまり、その声は作家自身の声に似てしまう。
(35ページ)
僕はうれしくなったが、気になることがあったので、はっきりさせたほうがいいと思った。「でも、そこに書かれている一本一本の電話が実際の事件と対応していることはわかったかい? その気になれば、全部実名を挙げることもできたんだけど」そう言うと、彼は驚き、創作だと思ったと正直に答えた。なんとなく心配になったので、さらに問い詰めてみた。「じゃ、シュトラッサーのところは?」ハイドリヒ本人が出向いてきて、瀕死のまま独房に放置しろと命じるところ、これもまた僕が創作した場面だと思ったという。僕はいささか傷つき、大きな声で弁明した。「そうじゃない、すべて事実なんだよ!」そう言ってから、心のなかで「ちくしょう、失敗か……」と思った。読書における暗黙の了解に関する意識をもっと明確にしておかないとだめなのだ。
(中略)
だからといって、誰も驚いたりしないどころか、シナリオをふくらませるために現実を改変したり、実際にはたいして重要でもない出来事やトラブルに満ちた行程からなる実人生の奇跡に一貫性を与えたりすることは当たり前だと思っている。こうして太古の昔から、口当たりのいいスープを作るために歴史的事実をごまかしてきた人たちがいるおかげで、僕の古い友人のような男は、ありとあらゆる種類のフィクションに精通した結果、平然となされる偽造のプロセスにすっかり慣れ親しんでいるから、ただ無邪気に驚いて「あれ、創作じゃないの?」などと言うのだ。
(69-70ページより)
この場面も、その前の場面も、いかにもそれらしいが、まったくのフィクションだ。ずっと前に死んでしまって、もう自己弁護もできない人を操り人形のように動かすことほど破廉恥なことがあるだろうか! 彼がもっぱらコーヒーしか飲まないおとこであるかもしれないのにお茶を飲ませたり、コート一着しか着ていなかったかもしれないのに二着重ね着させたり、汽車に乗ったのかもしれないのにバスに乗せたり、朝ではなく、夜に発つ決心をさせたりとか。僕は恥ずかしい。
(中略)
同時に僕はすでに申し上げたように、歴史の教科書みたいなものを書く気はない。そういう歴史の素材を使って、僕はごく個人的な事柄を書こうとしている。だから、僕のヴィジョンにはときどき裏付けのある事実が混じることになる。だから、こんなふうになる。
(146-147ページより)