Game of the Lotusプロジェクトが主なモチーフとしている「花を盗った話」は、佐々木喜善、柳田國男、水野葉舟、伊能嘉矩らのテクストを一次資料として創作を行っています。ここでは、その初出の原稿と書誌データをご紹介します。


北国の人(水野葉舟, 1908)

水野葉舟が1908年(明治41年)に「新小説」に発表した短編「北国の人」には、不思議な話を語る「萩原」という名前の人物が登場します。モデルはもちろん佐々木喜善。『遠野物語』が刊行される2年前に、「花を盗った話」は水野によって紹介されています。

しかしそれは、いま私たちが知っているのとはちょっと違うお話となっています。降ってくるのは霊華ではなく「箭(や)」。そして、花を盗んだのは末娘ではなく長女です。

萩原はもうすっかり趣に乗ってしまって止め度無く独りで話し続ける。 「その山にも面白い話があるのです。 その三つの山って言うのは大昔三人の姉妹だったのだと言います。一番の姉はいじ悪で、末のが一番おとなしかったのです。そこで母さんの神様が、皆でそのA……山を欲しがっているから、 どうかしてその末の妹にやりたいと思って、三人に、今夜お前達が寝ているうちに、箭(や)を射るから、誰れでも自分の枕元に箭の立っていたものが、A……山の持主になるがいいと言って、三人の寝ている間に、そっと来て、 末の妹の枕元に箭を立てて行ったのです。すると上の姉が夜中に眼をさまして、自分の処に無かったので、ひどく悔しがッて、こっそり妹の枕元から、持って来て自分の処に置いて知らん顔をしていました。 「夜があけて、三人は起きて見ると、箭は姉の処にあったので、末の妹はひどく泣いたのですが、 仕方無しにC……山に、中のがB······山に別れて行ってしまったのだと言っています。 「それでそのA……山は高い凄い山ですがね、今でも恐ろしい話が沢山あるのです。私の国では、夏ごろにそこに菌(きのこ)を採りに行ます。 そしてよく山に小屋掛をして、そこに寝ると、夜中にきっと怪しい事があるのですね。 時は決っていますが、真夜中になると、山の中が、ぽーッと、まるで月でも出たように、何処からか薄明がさして来て、 そこらが青みがかって見える。 と思うと、谷を隔てた遠くの方で、澄んだ女の声で、さも寝くなるような調子で、歌を唄い初めるのです。それに聞きとれていると、そこらで、ぎゃあーっと女のけたたましい声がして、 その薄明がばったりと又もとの暗(やみ)になってしまうのです。……私の村のものなどは、大抵こんな 目に逢っています。 ......」

本作品は『遠野物語の周辺』(著・水野葉舟 編・横山茂雄, 国書刊行会, 2001年)で読めます。


遠野物語(柳田國男, 1910)

柳田國男が1910年に刊行した『遠野物語』。この作品によって、遠野で語り継がれていた「花を盗った話」が全国に広く知られるようになります。『遠野物語』のなかでも特に古い時代の伝説であるためか、遠野の地勢や歴史を伝える特別なエピソードとして配置されています。

本バージョンの特徴はなんといっても柳田が書き足した「今夜よき夢を見たらん娘によき山を与ふべし」という部分。この部分は、葉舟のバージョンにも、後に発表される喜善のバージョンにも含まれておらず、柳田自身が書いた初稿・毛筆版にもありません。つまり柳田の創作です。

二 遠野の町は南北の川の落合に在り。以前は七七十里とて、七つの渓谷各七十里の奥より売買の貨物を聚め、其市の日は馬千匹、人千人の賑はしさなりき。四方の山々の中に最も秀でたるを早池峯と云ふ、北の方附馬牛の奥に在り。東の方には六角牛山立てり。石神と云ふ山は附馬牛と達曾部との間に在りて、その高さ前の二つよりも劣れり。大昔に女神あり、三人の娘を伴ひて此高原に来り、今の来内村の伊豆権現の社ある処に宿りし夜、今夜よき夢を見たらん娘によき山を与ふべしと母の神の語りて寝たりしに、夜深く天より霊華降りて姉の姫の胸の上に止りしを、末の姫覚めて窃に之を取り、我胸の上に載せたりしかば、終に最も美しき早池峯の山を得、姉たちは六角牛と石神とを得たり。若き三人の女神各三の山に住し今も之を領したまふ故に、遠野女どもは其妬を畏れて今も此山には遊ばずと云へり。

本作品は、いまでもあらゆるバージョンで手に入れ、読むことができます。


来内村の神跡(伊能嘉矩, 1907 - 1914)

伊能嘉矩は、柳田國男が敬意をいだき続けた遠野の学者です。伊能は、『遠野物語』の刊行に前後する1907年(明治40年)〜1914年(大正3年)にかけて「遠野のくさぐさ」という文章を書き、編みます。

その内容は、『遠野物語』に大いに刺激を受けながら、しかし文学ではなく研究として質を高める方向に向かっていきます。三山の伝説のなかに、国内の他地域、そしてアジアへの関連を見ていきます。

里老相伝ふ、昔伊豆大権現飛び来りて来内村に降臨し、此処に鎮座ましましぬ(今伊豆神社と称す)。後三女神を生み給ひしが(社地の梺に御産畠と呼ぶ地あり。是れ其の誕生の址なり。同じく少しく隔てて鍋田と呼ぶ水田あり。元と泉の涌きたる処にて産湯を奉れる址なりと。故に一に産洗田ともいふ。稗貫郡大迫上町一丁許東方の山丘に在る伊豆権現社址、伊豆国田方郡熱海町に属する伊豆山の同権現皆地形の同似を示し、現代アイヌ語の岬鼻に照応す)、此の姉妹の三女神を早池峰・六角牛・石上の三山に鎮めまゐらす事となり、長嶺七日路に水なしといふ野山を越えられて、今の附馬牛村に到られ、其の長嶺の 一部と見なさるゝ附馬牛の山路中に古き栗の木ありて、件の神神の憩ひたまひし跡と伝ひ、其のために葉は縮みつつあるといふ。母神の宣ふまゝに約すらく、「三女神の寝ねます腹の上に蓮花の下りぬる方を、いと高き早池峰の山に鎮め申さん」と。 斯くて三女神各々眠りに就かせ給ふ。  其の夜、姉神の腹に蓮花の降りけるを、季の妹神目を覚まし、 窃かに取りて己れの腹の上に載せられける。軈て三女神共に起きまゐらせて之を見そなはし、約の如く三山に分かれ給へぬ。 附馬牛の神遣(カミヤリ)の地其の址なりと(産湯を奉りしてふ泉は後に水田となし[即ち鍋田]今も苗三把を限りて植え、之を刈るとき 必ず六把の小束に作り、且つ肥料を施さず、女人の耕耘を禁ずとぞ[現在田の広さ約一坪]。之を早池峰の神饌に供するを例とす。或は云ふ、此の田に苗を植うる日は、晴天の時にも必ず雨ふると)。

蓋し按ずるに、来内村は大同元年初めて早池峰山を開ける始閣藤蔵の生地なるに因み、此の神話を生ぜしなるべく、 乃ち伊豆大権現といへるは、原と此の地の土神(恐らく蝦夷の神)にして、お産畠といひ産湯の泉といふは、すべて其の神話的古跡なるべし。斯くて其の後、藤蔵早池峰を開き、神霊を奉祀するや、彼の泉の在り処を水田とし、之より奉斎の稲を得たるにやあらん(神に奉る穀に肥料を用 ざること忌穢の古俗の一遺風と見るべし。越後国北魚沼郡入広瀬村地方にては天王田と称し、自家の作田中の一枚に全然肥料を施さずして稲を作り、収穫後之を洗米又は甘酒として氏神に供ふる風あり。是れ亦同一なる起原の古俗といふべきか)。  其の三女神の分れ給ふ時、蓮花の約を結びしといふ如き は、三山有祀後の附会の伝説にして、恐らく其の由来を神秘にせんが為めにせる潤飾なるべく、彼の満州の遠祖の神 話に、長白山の東布庫里山の梺の湖に、三天女の来り浴せし時神鵲あり、朱果をみて季女仏庫倫の衣に置く。斯くて愛親覚羅氏の祖を生む云々との古き伝説と相似たり。  此の神話より更に早池峰の神は盗みの神にましますとの伝説を生じ、尚ほ里俗一生に一度は偸盗の行為の露顕を免れん事を祈求すれば効験ありとも伝へらる。或は祓戸の神 に因める罪状懺悔の遺風の逆転か。  或る時、東山に名を矢蔵と呼ぶ農夫あり。家素と貧にし て自由に植ゑ付くべき苗の種に不足しければ、不図悪心を起して或る富家の苗代より糯苗を盗み取りて自田に植ゑた り。此の事忽ち矢蔵に嫌疑かゝりけるに、矢蔵は、「吾れ未だ嘗て他人の苗を盗みしことなし。其の証拠には吾が田に植ゑしは粳苗にて糯苗に非じ。 疑はしくは、実地に臨験せよ」と抗弁しつゝと、心に平素信仰する早池峰の神霊に向ひ、「何とぞ彼の糯稲の苗をば粳稲の苗の形に変ずるやう守護し給へ」と祈願を凝む。斯くて之に臨験するに、果して外形苗の如くなりしより偸盗の露頭を免がるを得たり。然るに秋に入りて此の粳苗の如き外形の稲より糯の種を収穫したぞ。之を 「矢蔵糯」或は「早池峰糯」とて 伝来するに及びきとぞ。  凡そ早池峰に登山せんとする者は、七日の間精進潔斎し、 且つ女人の手に成れる衣を身に着けざる習慣なるが、来内の村民のみは其の神の発祥地たる因みにて、斯かる制限な しといふ。之と同系の慣習は富士山にもありて、太古近江国の地裂けて琵琶湖を生じ、同時に一夜の中に富士山を駿河に湧出したりとの伝承に基づき、昔時富士に登山するには富士禅定とて通例百日の精進を為すを要しも、特り近江の国人のみは富士山がもと近江の土なればとの故により、 七日間の潔斎にて登山するを得きといふ。 伊豆大権現といふは、其の神社の位置より按ずるに、アイヌ語の「山ノ鼻」てふ義の「エツ(ETU)」より出て 「山の鼻に鎮座する神」の意にて「エッ、カムイ」とやう称せられ来りけんを、後に「伊豆」の字を当て「伊豆ノ神」と呼び、果ては伊豆より飛来したりとの神話を付会するに至りしならん。即ち伊豆大権現は、原とアイヌの神な りしなり(日本にても夷神を祭りしこと斉明天皇七年に阿倍比羅夫の粛慎を討ち蝦夷を征したる後蝦夷神を祭れり)。  現代のアイヌが満州地方の住民と土俗的依従ある如く、 往古の蝦夷も満州系統の人民も神話の交通ありきと覚ゆ。

これは生前未発表の原稿で、1994年に刊行された『日本民俗文化資料集成 第十五巻』の収録されるときに初めて翻刻されたものです。