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学生時代

小さい頃から兄の影響でゲームはよくやっていました。機械との接点は本当にそのくらいで。同級生たちには今の自分を想像できなかったと思います。

中学時代は、夜な夜な海外サッカーを見ていました。そのためにインターネットを使い始めたのを覚えています。セリエA全盛期の時代に中田英寿に始まって、海外サッカーをずっと見ていました。その頃から、寝る時間がもったいないと思っていた気がします。ビデオにとって全部の試合みたいって思ってました。 その時からラツィオ(イタリア)とバルセロナ(スペイン)の2チームを応援しています。 その当時の選手の名前はいまだに覚えています。母がネスタやベロンやクレスポの名前を知っていたのはびっくりしました。僕の叫びで覚えたそうです。

父が医者で、ヘルニアになったときに父の友人に手術をしてもらったのですが、 自分が医学部にいかなかったことを父が残念がっていた話をききました。 医者という職業の偉大さに触れ、その存在を超えるために、世の中への存在価値を医者以上に発揮できる職業で大成したい、という思いが芽生え始めました。

祖父が近所で釣り餌屋を営んでいましたが、祖父のように「粋」な下町の江戸っ子になりたい、と思ったこともあります。祖父の葬儀には1000人を超える人が集まったのも覚えています。

3年生でサークルの現役を終えると、就活と海外への興味が湧いてきました。 上智大学ということもあり、様々な言語を話せる人も多く、刺激は多かったです。 早々に就活を終えてしまい、バイトと海外旅行の日々になりました。

就活ではとにかく自分を”成長させてくれる環境”を選びました。 若いうちから1人でやらせてくれるのか、昇進に年齢は関係あるのか、会社の中での新しいプロジェクトに入るためにはどんなことをやるのか、などを聞いてまわり、すべてを叶えていたワークスアプリケーションズに入社します。

パソコンがとても苦手だったのですが、技能ではなく「優秀なものだけが来ればいい」という、当時の社長の挑戦的なメッセージに惹かれたのもあります。正直タイピングもできず、手書きでレポート書いたほうが早いくらいのれべるでした。

そこでの経験が楽しかったのはもちろんなんですが、自分の英語力のなさに嫌気が差し、4年生の後半をオーストラリアで過ごすことを決め、アルバイトの日々に。グローバルダイニングのモンスーンカフェ銀座店で2年ほど働いていました。アルバイトは他にもたくさんしましたが、ここでの経験は今でも生きている気がします。

オーストラリアでは語学学校とホームステイを1ヶ月ほど。その後は現地でサーフィンとアルバイトの日々でした。英語力は普通に暮らせるくらいにはなりましたが、現地の人のバーでの会話にはついていけない程度で終わってしまったのを悔いています。シェアハウスで暮らし、車を買い(また売り)お金の残高を気にしながら自立した生活をできたのは良かったと思います。 卒業旅行に大学のみんなに来てもらって、ゴールドコーストを縦断したのは楽しかった思い出です。 正直、今の自分がどこから作り出されたのかはわかりませんw

キャリア

堀内の色々(他己紹介)