メタバースが激しくバズっている。 根拠のない期待が膨らみ過ぎ、来年あたりにはバブルが弾けるのではないか。 何も起きないまま、話題だけで地に沈むにはあまりに惜しい。 本稿は、今後も粘り強く挑戦してくれる方々のために、なぜ今メタバースが話題になっているのか、今後どのように推進すべきかにつき、少しでも解像度を上げることに貢献できればと思って書いた。 本質に迫るためには、ゲーム論を拡張するのが最も効率的と考える。 ゲーム業界の方は、これを純粋にゲーム論として読んでいただければ結構。 また、広くIT業界の方々も、どうかゲームなど無関係と思わず(内心バカにしてるでしょw)、メタバース解説として一読いただければ幸いだ。 だって、メタバースって、何者として議論すればいいかすら曖昧でしょ、少し付き合ってくださいな。 順を追って説明するので、暫し辛抱して読んでいただきたい。

全体を4章で構成する。 まずは、「インターネット+パーソナルコンピュータ(以下、ネットPC)」というメディアと、コンピュータゲームというコンテンツとの関係を論じ、現時点、誕生以来最大の転換点にあることを述べる。 次に、ネットPCの次のメディアがどのようなイメージであり、ゲームというコンテンツはどこに向かっていくかにつき言及する。 以上で、メタバースの現時点での立脚点がご理解いただけるようにする。 さらに、ゲームの観点からプラットフォームの変遷を述べ、メディアが流動化する中で新たなプラットフォームとしてどのような機能が要求されるはずかを考えてみる。メタバースといえば必ず出てくる FORTNITE の開発・運営主体である Epic Games がこのタイミングで注目を浴びるのは、決して偶然でないことに納得がいくであろう。 最後にメタバースそのものについて、私見を述べる。

目次

1.メタバース: as content, as media?

この図は、コンピュータゲームと音楽の消費額の推移だ。 音楽(右図)については、レコード盤、カセットテープ、CD、ネットと、旧メディア(これだけなら記録媒体でしかないが、実際には再生装置とセットになっているので、「メディア」と捉える)が新メディアに完全に代替されていっている。 なお、個人消費額のグラフなので、音楽利用の時間や頻度が落ちているとは結論付けられず、また、例えばコンサート等はここには反映されていないため、縦軸が小さくなっている事は、必ずしも音楽というコンテンツが衰退していることにはならないので注意して欲しい。 さて、左を見てみると、コンピュータゲームについては、デバイスの世代交代は完全には起こっておらず、地層のように堆積していっている。勿論、PlayStation2 から PlayStation3 といった代替はあるが、誤差とみる。

何故、完全に代替されないのか? この問いを契機として、コンテンツとメディア、さらにテクノロジーとの関係について考えてみたい。

(1) コンテンツとメディアとの関係

この図は、コンテンツとメディアとの関係を描いている。 コンテンツは触れる事が出来ない。物質ではないため形がない。小説、音楽、映画、ゲーム、なんだってそうだが、コンテンツはメディアによって初めて生命を得る。 ここでは形にすること、すなわち、定着させ保存することを「固定」と呼ぶ。保存形態によって伝搬方法が決まる。 小説で言えば、紙とペンがあれば表現出来るが、圧倒的な普及を可能にし、知の共有に貢献したのは、印刷技術だ。聖書に始まり現在の書籍の型に収斂し、書店の流通網を通して読者の手に届くようになった。つまり、小説は、書籍というメディアに固定され、伝搬(流通)していると言える。メディアの機能は、コンテンツの固定と伝搬で、その時点でのテクノロジーに依存する。他方、コンテンツはメディアに規定される。これが両者の関係だ。 コンテンツはメディアがなければユーザーの手に届かない。業界の名称がコンテンツではなくメディアの名称になっている点に注目して欲しい。 先の例で言えば、文豪も、その書籍が読者に届かなければただの人。ノーベル賞作家であってもメディアなしには成立しない。従って、作家業界でも小説業界でもなく、「出版」業界と呼ばれた。 レコード業界、フィルム業界等、全て、そのコンテンツが普及した際のメディアの名前が業界の名称になっている。これはメディア「化」に価値があった事の証左だ。 コンテンツ産業の実態は、メディア・コンテンツ産業だったと言える。

コンピュータゲームというコンテンツの業界は、実態を反映すればメディアである「ゲーム機」の業界、すなわちゲーム機業界と呼ばれるのが自然なはずだった。 ところが、ゲームは、誕生時から、コンテンツとメディアとの相互依存が極めて強かったので、コンテンツとメディアが混然となった、あるいはコンテンツ寄りの業界名称になったのだろう。「ゲーム業界」と呼ばれた。 やや脇道に逸れるが、ゲーム業界ではパブリッシャーという単語を使う。出版者という意味だ。しかし、ゲーム・パブリッシャーはメディアには何の関りも持っていない。任天堂をパブリッシャーと呼ぶのは分かるが、スクウェア・エニックスがパブリッシャーと言われるのは非常に違和感があった。事程左様にコンピュータゲームではメディアの観点が抜け落ちているため、しばしば議論が混乱する。 コンテンツの「You」はダ洒落なのでスルーしていただいて結構。図に入れたのは、WEB2.0、UGCの重要性の備忘のため(SNSは、メディア/コンテンツの観点というよりプラットフォームとして議論するのが妥当だろう)。

メディアとテクノロジーについてざっと見れば(右半分)、19世紀は固定の革新、20世紀は伝搬の革新だったことが分かる。ちなみに、テレビは伝搬の革新の代名詞で「マスメディア」が誕生した。 20世紀末期になるとコンピュータとインターネットという、それまでの歴史をすべて塗り替えるメディアの革新が起こる。 デジタル処理できる範囲が拡張するにしたがって、コンピュータとインターネットは、インフラ、環境と同義になり溶けていく。本質の把握においては、メディアは「概念」として今後も重要であるものの、ビジネス、テクノロジーの観点では、議論の対象はプラットフォームにシフトしていくことになる。

ディズニーの歴史

ところで、コンテンツとメディアの関係の流れを見る上でディズニーの足跡は非常に象徴的だ。

1923年に設立したディズニーは、基本的には、スタジオ、プロダクションといったコンテンツ制作側の社名を名乗っていた。 IP(著作権)をビジネスにしたこと、テーマパークを始めたこと等、ビジネス面のイノベーションもあったが、数十年低迷することになる。20世紀半ばまではメディアがまだ振動(後述、試行錯誤の過程で型が定まらず安定しない状態)しており、コンテンツ側から収益の主導権を握るのが難しかったのも一因だろう(いや、勿論トップの問題は大きいですけどね)。 84年、満を持して、マスメディア業界からアイズナーをCEOとして迎える。 彼は、ディズニーを総合メディア企業に変革すると宣言。 20世紀後半、フィルム、テレビといったメディアが安定し始めてからは、それまでに定着したエンタメは成長、成熟期に入り、産業全体が潤う。 20世紀はメディアの世紀だったのだ。 ところが、アイズナー政権初期は業績回復に成果が出たものの、後半、低迷に入る。20世紀も末期になると技術革新が進んだことから旧来メディアは精彩を欠き、単なる地主のような立場のメディア・コングロマリッドは利益を脅かさられるようになる。「コンテンツ・イズ・キング」と言われたのはこの頃だ。 ついに2005年、アイズナーはCEOを譲ることになる。 後任のアイガーは路線を大幅に変更し、次々とコンテンツ会社を買収する。その成果が昨今のディズニーの好業績に繋がる。メディアからコンテンツに主役が移っていた点に的確に対応したわけだ。 さらに、彼が退任する頃からは、ディズニーは、ディズニー+のローンチ、および Hulu の買収で、インターネットを基礎とするプラットフォームへの変容を開始する。新しいメディアとコンテンツとの関係を探り始めたようである。さすがにネズミの王はしぶとい。

(2) コンテンツとメディアとの動的関係

次に、コンテンツとメディアとの動的な関係につき仮説を述べる。

・新たなテクノロジーにより、新たなメディアが誕生する。早晩、新たなコンテンツが産まれる。ポイントは、出発点がメディアであることだ。 ・メディアは技術革新により落ち着きどころに辿り着くまで試行錯誤を繰り返す。いわば振動して進歩していく。 ・コンテンツはメディアの規定を受けるので、その振幅の範囲内で振動する。コンテンツとメディアとの相互依存が高い状況では、どちらが主導か分からなくなる場合もある。後で述べるが、相互依存が激しく、犬と尻尾の関係が(例が悪いかw)判然としないのがコンピュータゲームだと思う。 ・メディアの技術革新は、ビジネスの成功で加速され、いずれ収斂していき、メディアの型も落ち着いていく。メディアが受け入れられビジネスが軌道に乗ると、部品の量産、要素の改善が効き、より効率的に技術が進み、さらに市場を広げる。この良好なスパイラルが収斂に導くのだろう。 ・メディアの型が収斂すると、コンテンツはその型にはめられ、成熟期に入る。 ー次のサイクルー ・新たなテクノロジーにより、新たなメディアが誕生する。その際に**新メディアに、最初に登場し、その普及を後押しするのは直前メディアで定番になった旧コンテンツだ。**そして、早晩、そのメディアならではの新たなコンテンツが産まれる・・・以下続く。

仮説を辿るには、映画の例が分かり易い。 エジソンがキネトスコープを発表したのが1891年。箱を覗き込む形式からスクリーンへの投射に転換したのがリュミエール兄弟。最初の公開映画は単なる記録である「ラ・シオタ駅への列車の到着」(95年、50秒)。新メディアを瞬時で実感できる素材を考えたのだろう。 技術の向上により長尺が実現していくと、すぐにストーリーが入るようになる。「月世界旅行」はご存知の方も多いだろう(1902年、14分)。1920年代には既にチャップリンが活躍している。 以降、サイレントからトーキー、サウンドトラック、モノクロからカラーへと、着実に進歩していく。この過程で、際物も多く出ただろう。これがメディアの振幅に当たる。 一方、メディアが改良されると、その都度、映像作品が変容しながら追随していく。当初は旧コンテンツである演劇の移植だったが、それとは異なるフィルムならではの表現が完成されていく。ビジネスの観点からは30年代のハリウッド黄金期から第二次大戦をはさんで、劇場公開のビジネスモデルが確立し、フィルム業界が着地する。 メディアが収斂すると映画というコンテンツの型も固定してくる。 元々90~120分の尺は映画館の観客の回転を考慮しての結果だった。ところが、次世代メディアであるTV、ビデオでの収益機会を前提とする展開となっても基本的には単なる焼き直しでフォーマットは修正されなかった。現在に至り、焼き直しとは言えない NETFLIX の新作であっても概ね尺は同じ(ちなみにTVドラマタイプの作品もTVの尺のまま)。 もっとも、観方を変えれば、新メディアにおけるキラーコンテンツとしては堂々たる存在感で、なかなかオワコンにならないとも評価できる。 フィルム映画を脱皮し、映像コンテンツとして新たな型を試して欲しいとは思うが、旧フォーマットの収益が美味し過ぎて、なかなか挑戦が産まれない。ユーザーとのインタラクション(カメラ視点の操作等)、フィードバック(進行への影響)、外部情報との関連付けあたりは、アイデアとしてすぐに思いつくが、マネタイズするまでには至らないとの判断なのだろう。旧フォーマットに業者が満足するがゆえに進歩がない印象だ。隣接のゲーム業界からの侵略を期待する(ウソです!)。

音楽は、鑑賞の型(演奏会等)が出来上がってから科学的なメディアが登場した。コンテンツの型が既に落ち着いていたため、むしろ、その後のメディア側が合わせることになった。コンテンツ末期の展開だ(映画の例で言えば、メディアが何世代交代しても、そのままキラーコンテンツであり続けるイメージ)。 音楽家でもあったソニーの大賀社長がクラシックの尺に合わせてCDの録音時間を決めたのは雄弁な逸話。 音楽は、ネットPC時代になり、ユーザーが自由に作品を編集できるようになって、ようやく新コンテンツに脱皮しそうだ。

旧コンテンツが型を変えずに次のメディアにも持ち込まれ、新メディアならではの変更がなかなか成されないイメージを持っていただくために、手紙の小話を。 音楽と同じく、歴史が非常に長く、フォーマットが文化として定着してしまっていたため、メディアを変えたからといってコンテンツの型は簡単には変わらなかった。戦時中、電信においても手紙の文体を引きずったために敵国に暗号が解読されたのは興味深い話だ。私も外務省出向時代、電信の原稿に、「右」了承願いたい、といった縦書き文書を引きずる表現に驚いた記憶がある(電信の原稿用紙は横書き!)。e メールの文体も然り(メールと命名しなければ良かったかもね)。 ネットPCの双方向性にストレスが無くなって、ようやくチャットというニュータイプが登場した。SNSも新規。テキストのコミュニケーションにようやく手紙以外のフォーマットが加わったのである。