特別展『よみがえる正倉院宝物 再現模造にみる天平の技』

北海道近代美術館  2021/9/15-11/7

http://event.hokkaido-np.co.jp/shosoin/

色々示唆深い内容で大変興味深く、一つ一つを取り上げると思考が及んだ先は山ほどでキリがないので、ここでは二つ

・「古い迫力」

・「伝統とは何ぞや?」

まず一つ目は、度々ブログでも書いているが、経年により凄みや輝きを増すものと、みすぼらしくなるものの差は何だろう?という問い。展示されていたものは複製品であるが、それにしても作者の半分くらいは既にこの世を去っていて、感慨深いものがあったが、それだけの年月が経っているのに、全く古ぼけておらず、年月によって刻まれているはずの「凄み」が感じられない。技術は確かにすごいが、言い方がものすごく悪いが、薄っぺらに見えてしまった。

実際に使われていない(人の手垢がついていない)、管理された空間で「保管されていた」ものだから、もしくは、「保存するために作った」ものだからだろうか。

正倉院に実際に保管されているものの「凄み」は、(見たことはないが)こんなものではないはずなのだから、やはりそこには「人間の営みの中で人の手垢がついて刻まれる凄み」現代風に言い換えると「膨大な情報の蓄積」があるとないの違いなのだと思った。

その「モノ」に、「膨大な情報」が刻まれ蓄積されるだけの度量が無ければ、そうはならないのは言うまでもない。それが「みすぼらしくなる」と「凄みを増す」の違いなのだろう。

では、その「度量」とは?

何にしても、復元した技術はもちろんすごい。その工程や細部にまで拘った様子も伝わってきた。常々思う「なぜ人間はこうまでしてモノに文様を刻みたいのか?」という疑問。そして自分の制作しているものを省みて途方に暮れたくなる現実。

これらの複製品もこれから先複製品の道を何百年も生き、凄みを纏うのだろうか?

二つ目は、「伝統」とは何だろう?ということである。展覧会のチラシには「受け継がれた職人の技」や「復元した伝統工芸」というような文言があるのだが、技術のほとんどは国外から持ち込まれたものであるわけなので、それが国内で磨かれた=伝統 と言って良いのか? それとも、「日本で伝統的に成熟した技術で当時の技術を再現した」という意味として理解して良いのだろうか?

もしかすると、これらの宝物は、当時では最先端の技術、現代でいう「VR」とか「メタバース」とか、そんな感じの位置付けだったのかもしれないと想像が膨らむ。

「伝統」という言葉の持つ曖昧さは、現代における手仕事の位置付けにも通じて、大変示唆深いと思った。

関係ないが、本格的に復元作業に着手したのが1972年というので、それも感慨深いものがあった。なぜなら私の生まれ年だからである。札幌オリンピック開催、沖縄返還の年でもあり、すぐ後にオイルショックで社会は大混乱である。

そのような中の復元作業着手。昨今の社会状況に伴う急激な時代の変化の渦ともリンクした。