父の遺品を整理していると、大量のフィルムが出てきた。35mmから8mmまで。好事家の父らしく見事な保存状態であったが、デジタル化した形跡はない。シールの日付を見るに、その多くが今から十年ほど前、夏のイタリアで撮られたものだ。確かこの年は、エディとバカンスへ行った。詳しい経緯は思い出せないが、彼ひとりだけが俺たち家族と海を渡り、共に一夏を過ごした。  そういえば父はある時期オールドカメラに嵌まっていて、古道具屋やオークションでせっせと買い集め、家族を撮っていた。父には酔うと長話をするという悪癖があり、当時はカメラの仕組みとか、フィルムの種類だとかについて、延々、語られた記憶がある。自分も同じ趣味を持つ今改めて彼のコレクションを見ると、なかなか貴重なものが転がっている。それにしてもライカの多いのに呆れた。人のことは言えないのだが。  映像を撮ったものについては、せっかくなので観てみることにした。機材を引っ張り出し、当時はなかった最新の機器に繋いで、プロジェクターで映す。簡易スクリーンと別荘のソファだが、自分だけのミニシアターにはちょうどいい。この別荘も、幼少期の夏の多くを過ごした場所だ。青年に差し掛かってからは家族より友人付き合いが増え、自然と通わなくなった。成人して以後、またちょくちょくと使うようになったものの、当時のような賑やかさはない。今も、ここには一人きり。ほかに思い出を観るひともない。  何巻かある中の一つをセットし、再生する。特有のノイズと、時を経ての褪色。それでも八月のイタリアは鮮やかだ。  最初のシーンは、中庭だった。噴水があり、庭の周囲に果樹の林がある。ぐるりと回ったカメラの先に立っていた人物を見て、唐突に、記憶が蘇った。このカメラを構えているのは自分だ。父に借り、夏休みのあいだ暇さえあれば回していた。被写体は、十六歳のエディ。  茫然とする。画面には、濃く厚い葉を繁らせる果樹と、白いタンクトップを着た彼がいる。沈みかけた陽が金髪を照らし、辺りをオレンジに染めていた。彼の手には、真っ赤なトマトがある。確かキッチンからもらってきたのだ。彼はそれをもてあそび、一、二度、宙へ投げてみせる。  それから庭へ出て、テーブルにつき、強い西陽に目を細めた。手をかざしながら俺を見て、そして、小首を捻るように笑う。  昔から、この笑い方が、大好きだった。首を傾げ、一瞬だけ肩をすくめる。片眉を上げて、仕方なさそうに、それでも愛おしげに彼は笑う。滅多に表情を変えない彼の笑顔のサイン——とはいえ、エディは普段からよくこのように首を傾げていたので、笑みに付随するものだとは限らなかったのかもしれない。けれど、俺の記憶のなかで彼はいつも、そうやって笑う。  十六の彼は俺に何かを問いかけるということもなく、また西陽を向き、トマトに齧り付いた。瑞々しい果汁が溢れ出るに任せて、無造作に歯を立て、呑み込む。赤い滴(しずく)が腕を伝い、逞しい筋に沿って流れ、白いテーブルに零れる。エディは、あっという間に食べてしまうと裸の腕で口許を拭った。しばらくそれを写したあと、不意に、画面が切り替わる。  今度は昼間だ。庭のハンモックに彼が寝ている。ハンモックというものが本来想定しているはずのないところにまで足が及んでいて、背丈を思えば仕様がないが、つい笑ってしまう。  少年はどこか窮屈そうに、軽く眉根を寄せていた。エディのいつもの寝顔だ。彼が無防備に、安心し切って寝ている顔など幼い頃から見たことがない。投げ出された体躯は、今と比べれば細いが、当時の自分にしてみればまるで別の生き物と映った。己の頼りない細腕や、薄っぺらい体と比べて。  カメラは怖い。何をどのように見ているか、すべてが伝わってしまう。  十六歳の自分が、エディの寝顔に近寄る。カメラを、そっとズームさせる。額にかかる前髪と、眉、睫毛が、金に透けている。重い瞼、厚い唇。陽の高さゆえに彼の顔にはほとんど影が落ちていない。それでも、その彫りの深さと、鼻梁の高さはありありと分かる。自分の手——白すぎるほど白く華奢な手が画面に写り込み、彼の胸に置かれた。汗を吸って湿った、コットンリブの感触が、手のひらに蘇る。太陽に灼かれた肌の熱さ。  そして、彼の呼吸の感じ。ゆっくりと、上下する胸。  自分はしばらく動かなかった。今の自分でも、そうなるだろう。  胸を衝かれているうちに、また不意にカットが切れた。次に映った光景は、一瞬、何だかわからなかった。  画面は長いこと動かない。じきに、天井を写していると気づく。光の具合からして昼過ぎのようだ。二階のプールのそば、窓際のカウチのあたりだろうか。天井に、ゆらゆらと、水面の波紋が浮かんでいる。覚えがなかった。だがその理由もすぐに知れる。  カメラの向きが変わる。目の高さになって、一瞬窓の外を写したあとそれは反転する。あっ、と声が出た。写ったのはエディだ。自撮りをするような格好で、レンズを静かに見下ろしている。  これは、彼が撮ったのだ。どうりで記憶がないはずだ。  エディは口を動かした。小さな動きで判然としないが、「撮れてるのか?」とでも言っていそうだ。訝しげに眺めたあと、彼はカメラを構え直して室内を写す。ダイニングに人はいない。だが、陽の当たるカウチには誰か寝ていた。間違いなく、自分だ。撮影主と対照的に、すやすやと眠り込んでいる。  彼は、じっと俺を写す。やがて、画面がガタガタと揺れた。  何事だろう。見守っていると、下部にサイドテーブルが写り、どうやらカメラを固定しようとしていることが察せられた。ブックエンドやらオブジェやらあれこれと寄せてきて、なんとか、位置が定まったらしい。背の高い彼が思い切り腰を屈めて覗き込み、倒れないかどうか確かめている。納得がいったか、一つ頷くと彼はカウチの裏へ回った。背もたれがないから、その動きがよくわかる。  彼はしゃがみ込み、背中側の座面に両腕を置いて、俺を見た。その眼差しに、なぜか胸が締め付けられて俺はふと息を呑む。フィルムの中の彼は、実に長いことそのままでいて、俺は次第にむず痒くなった。が、唐突に彼が体勢を変えたので居住まいを正す。  彼は、俺の顔のすぐ横に右手を突いた。左手は、横向きに眠る俺を跨ぎ、俺の腰のあたりに置かれる。右腕へ重心を移し、半身を斜めにずらすようにして俺の真上へとやってくる。重力で落ちた金髪が、彼の横顔を少し隠す。  彼が、ゆっくりと肘を折る。姿勢が低くなっていき、俺の耳許——左の頬へ近づく。  髪の先が肌に触れそうな距離で、彼は止まった。  息を凝らしていた。そんな己に気付き、画面の前の俺は細く息を吐いた。彼の眼差しは、——金髪の隙間から覗く碧眼は、何も変わらない。どこまでも、静かで、優しく、なのにどうしてこんなにも、胸が苦しくなるのだろう。  海のような瞳が、俺を見つめている。記憶にはない彼の視線が、今さらになって俺に届く。カウチとサイドテーブル分の距離と、長い時を隔てて。  結局、彼は何もしなかった。ただ、左手をそっとあげ、俺の頬を指の背で撫でた。  それからあっけなく身を起こし、さっさと立ち去ってしまう。カメラは置き去りで、切られもしない。おそらくこのまま自分の寝顔を見続けることになると思い、俺も席を立って再生を止めた。灯りが消え、夏の室内の、裏腹な暗さが立ち上る。  振り返り、居間の腰窓を見つめた。  さんさんと明るい陽光が窓の外に降り注いでいる。風に吹かれる樹々の葉を見つめながら、俺は携帯を出した。画面を点けると、待ち人からのメッセージが届いている。もう今にも着く頃らしい。  耳をすませば車の音が遠く響いてくる気がした。俺は携帯をしまい、玄関へ向かう。彼をどのように迎えよう、——戸口に立ってすぐ、引き寄せて、その頰にひとつキスを落とす。

理由は、教えてやらない。十年前の夏、おそらくは半分近くも無駄にされた、フィルムの腹いせに。


2023.05.23.:ソヨゴ キスの日に合わせて書きました。キス、していませんが。