『原爆三十年』より
8月8日夜、テニアン島の基地をとびたった米軍第58航空団のB29爆撃機91機は、四国東南端より本土に侵入し、福山市を焼夷弾で攻撃した。先導機が照明弾を投下して、市街を照らし、周辺部の沖野上町・木之庄町・奈良津町にまず焼夷弾が投下され各所から火災が発生した。後続の編隊は市の周辺部からしだいに中心部へと、約1時間にわたって、じゅうたん爆撃をくりかえし、約500トンの焼夷弾を投下した。一夜にして市街地の80%、面積314ヘクタール、1万179戸が焼失した。被災人口は全市民の81%にあたる4万7322人、うち死亡者341人、重傷者864人におよんだ。福山全市の戸数1万2968戸のうち、焼失家屋総数1万179戸(うち全焼1万0154戸、半焼25戸)で、市街地のほとんどが全焼し、わずかに周辺部に近い吉津町・胡町・三吉町・長者町などのうち一部分を残すだけとなった。
福山空襲による死傷者数の正確な数は、戸籍簿がほとんど焼失していること、軍隊の駐屯や疎開による人口の移動がはげしかったことなどによりさまざまな数字が発表されてきた。
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周辺町村の被害
近郊の東深津町・奈良津町・木之庄町・手城町・川口町等にも焼失した家屋がかなりあった。
福山空襲の被害者
最近福山空襲を記録する会の人々によって、市の「戦災死亡者名簿」をもとに、戦災直後の数字234人をはるかに超える341人の死亡が確認されている。この数字は氏名の明らかな人のみで、氏名不明の犠牲者をふくまないから実際にはもっと多い数字になるといわれている。 被災者の証言、体験記などによると、死亡者の多くは、防火活動に従事して逃げおくれた人々、8月6日の原爆投下の教訓として、防空壕への退避が強調されていたため、防空壕より離れなかった人々、雨のようにふりそそいだ焼夷弾の直撃をうけた人々、じゅうたん爆撃においつめられ、火炎と煙にまかれて逃げ場を失った人々であった。
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