感じたこと


内容


引用メモ


離れることによって近く、遠ざかることによつて強烈な思いにかられる。そういう矛盾が業平文学、つまりは伊勢物語を生んだのである。私の使いなれた言葉でいえば、自分を無用者として自覚することによって、現実世界はひとつの変貌(トランスフィグレイション) をきたし、旧来の面目をあらためたのである。観念世界の誕生といったのはこの意味で

オレンジ色のハイライト | 位置: 304 私がこの長増について特に興味を感じるのは、道心を発して山を捨てたという一条である。道心を発して出家入山することが普通であるべき筈なのに、往生の道心を発した者が反って山を離れなければならなかったという事情が既にこの時代には顕著だった。叡山や南都の世俗化、堕落の問題もさることながら、そこでの顕密諸学の研究も、法文の読解も、自己の救済には役立たないという自覚がでてきたので

オレンジ色のハイライト | 位置: 310 叡山や南都を捨て離れて、跡を晦ましながらの念仏者が、聖とよばれたことが、私の注意をひくのである。高徳にして聡明な僧をよぶに用いる聖という字が、いまや聖人の聖ではなくて、ひじりとなり、乞食姿となって顕現したということ、それが王朝末期から鎌倉にかけての一般であったことはこの際記憶すべきことで

オレンジ色のハイライト | 位置: 363 法然は在家の者には悲をもって対したが、自己を持することはあくまで厳であった。彼はその意味で模範的な「僧」であっ

オレンジ色のハイライト | 位置: 364 親鸞が法然門から出ながら法然と違う点は、十悪、愚痴をひとごとならず体験し、また体験したればこそ、自己自身の、己れ一人の救いを求めてやまなかったことである。この救いが弥陀の本願によって成就されるという 信楽 と歓喜を、同じく煩悩に苦しむ衆生に伝えたかったので

オレンジ色のハイライト | 位置: 367 己れは僧に非ず俗に非ず、この故に禿の字を以て姓とす」は正直に自己の在り方を語って

オレンジ色のハイライト | 位置: 368 虚仮 不実ならばこそ、煩悩具足の凡夫ならばこそ、一層切実に救いを求め、念仏してやまないので

オレンジ色のハイライト | 位置: 371 念仏の機に三品 あり。上根は妻子を帯し家に在りながら、着せずして往生す。中根は妻子を棄つると雖も、住処と衣食とを帯して着せずして往生す。下根は万事を捨棄して往生す。我等は下根の者なれば、一切を捨てずば、定めて臨終に諸事に着して往生し損ずべきなりと思ふ故に、かくの如く行ずるなり。」  柳宗悦氏はこれに注して、ここにいふ上根は親鸞に、中根は法然に、下根はまさに一遍に当るといって

オレンジ色のハイライト | 位置: 381 一遍の一遍たるところはその捨聖にあった。聖道の教学はもとより、浄土の教義もない。義なきを義とする義もまたない。法然にあった天台との対抗意識、親鸞に残っている文章意識、修辞意識もここにはない。「万事を捨棄」する下根の行に徹しきった。わずかに自他一体、いや自他もない不二の、いや不二の二もない独一の、南無阿弥陀仏だけが残った。残ったというのは捨てに棄てた最後に、その極限において残ったというのではない。捨て果てたところが即ち念仏であり、捨てることによって一変した世界が即ち称名であった。世界が六字の名号において面目をあらためて現前したのである。一遍という名は、一にして遍から来ているという。一にして遍なるものが念仏であっ