ぎょにくさんのキャラクター、ユージン君をお借りしています。  昭和初期ごろの設定で、  架空の文豪・桐堂葉市が新聞連載しているエッセイというていのお話。


人の記憶は曖昧である。曖昧というのは細部でなく、夢と現(うつつ)の境の事だ。仮令(たとい)、今まさに眼前に起こっているかの如き情景も、寧ろその像が鮮やかである程、真偽は疑わしくなってくる。記憶が鮮やかであるというのは、裏を返せば鮮やかな処の他は落ちているのだ。記憶は思い返すたび焼き直しを繰り返し、淡い色合いの真実は都度真っ白に抜け落ちる。印象は印象と繋がり、勝手な合成写真を作る。例えば私の産まれた頃に死んだはずの祖父が家に居て、膝に乗せて貰った事を覚えていたりするのである。  現実が夢幻に近づくと同時、夢幻もまた現実に寄る。強く幾度も描いた夢はそのぶん脳に刻み込まれ、他の記憶が溶け込んで現実の手触りを得る。長い時の果てに前後が擦り切れてしまえば、後に残ったフィルムが果たして夢か現実(まこと)か、判断はつかない。

私の話が芝居になるそうだ。二、三年前に書いた話でほんの小品だったのだが、現代演劇をやる連中が気に入って取り上げるという。と云っても、短い話であるから、長々上演するに能わない。短篇劇を三つか四つ続けてやるという趣向で、そのうちの一作らしい。  とっくに世に出した話であるし格別の思い入れもない。好きに弄ってくれたら良いと放ったらかしにするつもりが、例の如くS君に云われて、稽古を見学する羽目になった。どうせ脚本家には脚本家の、演出家には演出家の哲学と拘りがあって、其れ等は私と噛み合う筈が無いから、見学なぞした処で余計な軋轢を生じるだけだ。その辺り、S君は、物が分かっていない。 「そう云うな孝一。今回の話はうちも一枚噛んでいるんだよ、俺の顔を立てちゃくれないか。」 「君のみみっちい顔なんて立てた処で何になるのかね。私は喧嘩はしたくないのに、君が態々(わざわざ)場を仕立てて来る。」 「俺は別に喧嘩を仕出かして欲しい訳じゃない!」S君は悲鳴じみた声を上げた。「後ろで黙って観てくれりゃいいんだ。不満なら後で俺がたっぷり聞いてやるから。呉々も、大人しくしてくれ。」  して、私の渋面を見ると、慌てて宥めすかしてくる。抑も、私を作家だからとこのような場に引き摺り出すなら、せめて筆名で呼んだら如何(どう)か。かと云って今更先生などと呼ばれるのも癪に障る。  万感を込めた一瞥を投げ私はひとまず黙ることにした。彼は沈黙に安堵したか、今から後(あと)の話をする。 「稽古場の近くに茶屋があってな。其処の餡蜜が美味いそうだ」 「君は上等な舌でないのに美味い店を良く知っているね」 「俺は予定があるんだが、君はこのあと空きだろう。領収書はうちの名前で切って好いから」  彼は私の厭味に取り合わずちらりと腕の時計を見た。うちとはつまりS君の勤める——社の事であろう。私はS君個人の名前で勝手に切って遣る事に決めた。 「何、世俗の煩累は任せろ。君は持ち前のノォブルな顔で、微笑でも湛えていれば良い」  私が社交に向かぬ事などS君は先刻承知である。またS君の世に稀な才覚と云えば人付き合いだ。この手の事は出版社で編集などやって居る者は総じて会得しているが、然し乍(なが)らS君は彼の異常の美貌を思えばハンディがある訳だから、素直に大した物である。突出した容姿と云うのは、好かれ様が憎まれ様が人付き合いには差し障りだ(ところで、私は其の美貌ゆえに彼の先程放った言葉を素直には受け取れなかったが、彼は単純明快な男で厭味はめったに云わぬから、此度(こたび)も他意は無いのだろう)。  そうこうする内、稽古場に着いた。繁華街の一角に煤けたビルが建っている。脇に小さく設けられた地下出入り口を下っていくと、戸を開けた先が稽古場であった。板の床に四方黒塗りの壁は、よく見ると暗幕を張っているだけのことらしい。劇団員はみな裸足だ。 「先生!」  私を本名で呼ぶS君は演出家を見つけると、腰を低くして挨拶に向かう。 「ああ、Sさん。此れは如何も」  上下黒を着た剃髪の男が、にこやかに振り返った。 「若しかして、そちらが?」  上に返した手のひらをそっと私に向けてくる。一応、会釈をして見せて、後はS君の云う通り微笑を湛えておいた。 「はい、此方が桐堂先生で。今日はお忙しい中お時間いただいて——」  S君の口上を聞き流し乍ら、私は既にして興醒めをしていた。僅かでも美に執心が有らば、S君の顔を見る度に血の凍る思いをするべきだ。幾らS君が人並みの様に上手い事振る舞ったとしても、此の美貌に目が慣れる事は、芸術家にはあってはならぬ。それは感じ動じる事を忘れていると同義である。或いは彼は動揺を毛ほども表に出さぬほど強い自制を得ているのであろうか。其れなら其れで御見それしたと云う他はない。 「いや、先生。近影通りのお姿で」  と、演出家が揉み手をし、私に声を掛けてくる。危うく口を開きかけ、すんでのところで留まった——其れは然うでしょう、私を写したのだから、違っていたら事じゃあないか——こうした文句を口に出すなとS君は釘を刺したのであろう。何とか気が付いて事なきを得たが、いっそ云ってやれば良かったか。 「主演俳優を紹介します」演出家は私の無言に気付かぬ風で笑みを浮かべている。「おぅい、こっちへ来い」  Yシャツ姿の青年がひとり柔軟をしていたが、呼び掛けを受け立ち上がった。少しウェイブの掛かった、柔らかそうな黒髪をしている。すっきりした面差しだが、何処かしら艶も感じられた。 「これが、うちの看板で。そら、桐堂先生だ、挨拶しろ」 「はい」青年は瞳を弓なりにした。まるで線でも引いた様だ。 「初めまして、桐堂先生。夕尽(ユウジン)と名乗っています」 「どうぞよろしく」  私は彼には挨拶を返した。成程、主演を張る者には独特の華がある。 「先生の著作、幾つか読みました。何(ど)れも面白くて」 「おべっかはいいよ。今回の役は、君の気に入ったかい」 「はい、とても。演じ甲斐があります。そうだ、先生——」  其処で夕尽は少し間を置いた。其れも何やら芝居じみている。 「僕、先生にお聞きしたい事があるのです。何処かでお時間いただいても?」 「暇な人間だから、構わないよ。稽古を見させて貰った後に、君が空いてれば茶でもしよう」  私は隣を見ない様にした。S君のにやにやした面が、見なくとも察せられる。

芝居の巧拙なぞは、俳優の力量も有るが、結局のところ演出家次第だ。と云うのは演出家が上手ければ、拙(まず)い役者も其れなりの間を作らせて貰えるし、逆に演出家が拙ければ、巧い役者のせっかくの味も全て台無しに出来てしまう。  さて今回の芝居について私から云う事はないが、夕尽には矢張り目が行った。彼の演ずるのは世に擦れていない純朴な青年で、弟とふたり身寄りもないが日々楽しく暮らしていたのを、他人の怖ろしい悪意に呑まれ、遂には人を殺める迄に追い詰められる話である。この話の勘所は無論主人公の苦悩であって、何によって追い詰められるか、その筋自体は問題でない。極端を云えば夕尽ひとり良ければ、他が御陀仏でも何とかなるので、そういう意味で今回の劇は観る価値くらいあるだろう。  稽古の見学後、示し合わせてS君ご推薦の茶屋へ行った。云われた通り餡蜜を頼み、じっくり味わってみたのだが、口惜しい事に実に美味であった。他に何(いず)れの用もなくとも、此れだけの為に訪れたくなる。付け合せの抹茶も絶品である。 「此れは美味いね」 「風味が格別です」 「夕尽君と云ったか。君は甘い物が好きなのか」 「甘くても辛くても、美味けりゃ好きです」 「成程」 「済みません。生意気でしたか」 「謝る事はない。全くその通りだと思っただけだよ。私も然うだ」  夕尽はほっとした様だ。其れから少し身を乗り出すと私を見据える。 「先生。作家と云うものは、矢張り念入りに取材するんですか」 「取材? 然うさね、必要な時は」 「しない事も?」 「しなくとも書ける場合にはしないよ。本當(ほんとう)は、彼是(あれこれ)取材したほうがいいのにしない事もある。連載なんて時間が無いから、特にだね。不味いと分かってるんだが」 「僕、この芝居を演る事になって、先生の話を読んで吃驚(びっくり)したんです」  私は餡蜜に匙を入れる手を止めて夕尽を見た。彼は、真剣な、其れでいて想いの窺えぬ顔でただただ凝っと見詰めている。 「僕の演る役、『A君』が、終盤に人を刺すでしょう。弟を売りに出そうとした世話役の男を、其奴(そいつ)のアパートで……」 「うん、そうだね。日暮れ前の、雲に覆われて暗い空の日に」 「ええ……僕、其処を読んでいて、まるで自分が本当に人を刺した様に思ったんです」  未だ話が読めぬ。夕尽の声に、巫山戯た調子は些かも無い。 「鼻につくカルキの匂いだの、畳の茶染みだの、男の手汗で濡れたテーブルだの。アパートの薄暗がりの情景がハッキリ焼き付いて、出刃包丁を太った腹に刺し込む感覚が両の手に……」 「つくづく、役者に向いてるね。其処まで上手く想像できれば大した物だ」 「違います」彼は首を振る。「想像した、なんて物じゃない。感触があったんです。知っている筈が無い、感触が」  私は彼の、清涼ながら甘い顔立ちを見詰め返し、愉快を覚えていた。面白い事を云うものだ。此処まで来れば彼が云わんとしている事は察しがつく。 「僕は先生に聞きたいんです。作家と云うのは、知らない物も、書けるものですか。其れとも彼(あ)れは、知っているから書けたのですか。想像ってのは其処まで自由な物でしょうか。僕には、——先生の小説を読んだ時の手の感触が、怖ろしいのです。身震いする程」  私は匙を入れかけていたクリィムを無事に掬うと、ぱくりと頬張り、甘みを愉しんだ。然うしてゆっくり面を上げると、再び彼と目を合わせる。私は、意識した訳ではないが、屹度(きっと)笑っていただろう。 「作家、と云っても、色んな作家がいるから、全てに敷衍は出来まいが、少なくとも私について云えば、程度によるよ。定義による」 「程度と、定義。……と云うと?」 「全く知らない物というのは、書けないに決まっている。其の概念が頭に無いのに筆から出てくる訳がない。だが、そっくり同じ事をしなくとも、作家は空想が上手いのが常で、勝手な想像を膨らませて色んな具合に考え尽くす。然うやって此れがよかろうと選んだものが上手ければ、其れが実際に極めて近いという事も有り得るだろう。其の場合、作家は知らない物を書いていると云えなくもない。かと云って、本當に何も知らなけりゃ、矢張り書けない。そんな意味だ」 「なんだか、丸め込まれている気分がしますよ」夕尽は笑った。「先生、其れじゃ、彼れは先生の空想ですか。作家の才能の賜物と?」 「然う問われると疑わしい。私に作家の才能なんぞ欠片でもあるのか如何か」 「僕は腑に落ちません。幾ら優れた作家と云って、ああも見事に……出来る物ですか」  私は如何云ったものか考えた(此れがエッセイである以上、まるで遠回しな手前味噌である)。別に私は、現実から離れ、有りもしない世界に遊ぶ事が好きだっただけの人間で、其れが優れているか如何かは読者の判断する処であるが、つまり、私が気になっているのは、$\mathop{\footnotesizeまさしく其の点}\limits^{\tiny\,﹅\,\,﹅\,\,﹅\,\,﹅\,\,\,﹅\,\,﹅\,\,﹅\,}$なのである。……私は、慎重に言葉を練って、何食わぬ顔で口を開いた。 「君が納得するか分からんが、一つ、思い出話ならできる」 「思い出話?」 「然う。君は、私が、君曰くまざまざと、殺しの場面を書けた理由が知りたいのだろう。簡単な話で、私は人を殺す事だけは念入りに夢想したんだよ。繰り返し、繰り返し、……もしかして本当に殺したんじゃないかと疑うくらい」 「其れは、この短篇の為に?」 「違うよ」私は抹茶に手を添えた。「ごく、幼い頃に」  彼は小さく唾を呑んだ。私は器を持ち上げ、濃く立った風味を堪能する。彼は若干、身を引いて、しかし矢張り視線は逸らさず問いを重ねた。 「つまり、其れは……何度も繰り返した想像だから、本物に近いと?」 「人の記憶ってのは曖昧だろう。幼時の記憶なら尚のこと。私は幼い時、切実な願望があって、ずっと、ずっと、遣りもしない事をしたら如何なるか、暇さえ有れば考えていた。繰り返し、繰り返し、全く同じ想像をした。……」  私は、そっと首を振る。 「君は、幼い時の記憶で、夢だったのか現実なのか、分からない事は何かないかね。どんなにまざまざと思い浮かんで、実際の記憶と信じていても、実は抑も有り得ない記憶であると気づいた事は? 死んだ筈の者が其処にいたり、無い筈の建物があったり、其の光景に$\mathop{\footnotesize自分自身が立っていたり}\limits^{\tiny﹅\ \,﹅\ \,﹅\ \,﹅\ \,﹅\ \,﹅\ \,﹅\ \,﹅\ \,﹅\ \,﹅\ \,﹅\,}$した事はないか、……どんなに鮮烈なイメージであっても、其れは結局他の記憶と結びついて半端に実体を得た、空想の情景でしかない。——本當だとは言い切れない」 「言い切れない」彼の手が、彼自身の顎へと伸びる。「夢とも言い切れない?」 「其れは然うだろう。確証がないよ。私の記憶は、夢想のイメージが強く残った結果なのか、其れとも実際に似た様な事が起こっていたのにすり替えたのか、私の頭に問い質しても本當の処は分からない。もう二十年以上前の事だ」 「じゃ、先生は——」夕尽は目を細めた。初めに会った時の笑みに似て、より、艶めいた笑みである。 「人を殺したか、殺してないか。自分でも、分からないんですか」  私は微笑した。「然ういう事だ」  夕尽は椅子に背を預けると、暫く小刻みに頷いて、其れから顎にある手を下ろした。 「難しい話で、よく分かりませんが。然ういう事もあるのかなあとは思いましたよ。成程……其れじゃ今回の話を書くに、取材をした訳じゃないんですね」 「覚えが無いね。恐らくしてないだろう。記憶を疑い始めたらきりが無いが、取材をしたかどうかなんてのが頭から消えるとも思えん」 「厭な言い方しますねえ。いや、ええ、屹度先生の仰る通りだ」 「ところで、夕尽君。私も少し気になる事があるのだけれどね」 「何でしょう?」  快活に応えた顔に、私は微笑を保ったままで尋ねた。 「本當に、知らないのか。知らなくて、分かるものかね」  ……彼の笑顔は変わらない。 「知りませんよ。知る筈がない」  私は其れで、腑に落ちて、残りの抹茶を飲み切った。彼とて私が如何受け取るか、分からず返した筈もなかろう。

此のエッセイに於いて、私は身内を除けば、出て来る者は仮名にしているが、夕尽だけは芸名をそのまま用いたには訳があり、現在彼は行方知れずとなっているからである。元々、来歴のよく分からない男であったそうで、或る日を境に突然姿を消してしまった。折しも、失踪は、私の短篇の舞台を踏む前日のことだった。  爽やかな風を纏いつつ、傾く西日の黄昏を感じさせる男であった。明朗な様で艶めいた彼の顔貌を思い出す度、今ごろ何処で何をしているか想像を巡らせもするが、こうも見事に消えてしまうと、もはや彼自身私の脳の夢であるかと思えて来るのだ。


2021年11月6日発表。 ぎょにくさんへの誕生日プレゼントです。先月でしたが、改めておめでとう!