須藤靖『人生一般ニ相対論』東京大学出版会、二〇一〇年。 須藤靖『三日月とクロワッサン──宇宙物理学者の天文学的人生論』毎日新聞出版、二〇一三年。 須藤靖『宇宙人の見る地球』毎日新聞出版、二〇一四年。 須藤靖『情けは宇宙のためならず──物理学者の見る世界』毎日新聞出版、二〇一八
青色のハイライト | 位置: 228 それに、もっとパンクでアナーキーな本音を言えば、「言いたいことを短く言えるぐらいなら、そもそも本なんか書かねえよ!」なので
青色のハイライト | 位置: 242 ここまで説明しても、「え? どこが違うの?」と思う方もいらっしゃるだろう。よってここで、意味と意図の違いを説明する上で一番分かりやすい例を挙げよう。ダチョウ倶楽部・上島竜兵氏の「絶対に押すなよ!」である。「熱湯コマーシャル」でおなじみのこの台詞は、ここで言う「意味」と「意図」が正反対になっている例だ。この台詞の文字どおりの「意味」は「(自分を) 押すな」であるが、熱湯風呂のふちでこれを口にする上島氏の「意図」が「押せ」であることはあまりにも有名で
青色のハイライト | 位置: 251 このような意味と意図のずれは日常的に見られ、しばしば私たちを悩ませる。中には、こんな例もある。かなりうろ覚えなのだが、以前ツイッターか何かで、ある女性が義母から受け取ったLINEだかメールだかの話を投稿していた。その義母はその女性(つまりお嫁さん) に向けて「近くの山の紅葉がきれいになってきました。明日さっそく見に行ってきます!」というメッセージを送り、それを見たお嫁さんは文字どおりに受け取って「いいですね、いってらっしゃい」などと返事したという。だが、後で判明したところによると、そのメッセージに込められた義母の本当の意図は、「明日義実家へ来い」ということだったそう
青色のハイライト | 位置: 286 ない。この本の中に多く出てくるのは、「意味の面から見て妥当な範囲で話しているにもかかわらず、意図の推測に相当複雑なプロセスが関わっていることを示す例」である。別の言い方をすると、話し手は「自分はおおよそ文字どおりの意図でしゃべっている」と思っており、聞き手も「相手の意図を文字どおりに理解している」と思っているのに、実はそこに意図理解のための暗黙の処理が働いているケース
青色のハイライト | 位置: 297 王子に困難をもたらす主な要因は、言葉の曖昧性や不明瞭さである。「曖昧な言葉」というと、多くの方は真っ先に「橋」(はし) と「端」(はし) のような同音異義語を思い浮かべられるかもしれないが、それ以外にも曖昧なケースはごまんとある。たとえば、何かを回せという指示を実行する場合、「回す」という言葉の意味さえ知っていれば誰にでもできそうに思えるかもしれないが、話はそう単純ではない。もし私たちがバトントワリング用のバトンを渡されて「これを回せ」と言われたら、棒の中央あたりを持ち、バトンの両端が円を描くように回すだろう。他方、横に渡した焼き串に肉を刺し、火であぶって丸焼きにする場合、「串を回せ」と言われたら串そのものを回転軸と見なして回すはずだ。さらに、「扇風機を回せ」と言われたら電源とスイッチを入れるはずで、手で本体をぐるぐる回したりはしない。これらの場合に私たちが「相手の意図している回し方」を難なく理解できるのは、それらの道具の用途を知っているからで、使い方を知らないものだったり、相手のしたいことがよく分からなかったりする場合は、「回せ」のような単純な指示も格段に難しく
青色のハイライト | 位置: 315 AIにとっての問題は、「意図を特定するための手がかりが、言葉そのものの意味の中に入っていない」ということである。つまり、AIにいくら言葉そのものの意味を教えても、それだけでは意図をきちんと推測するためには不十分、ということだ。何度も言っているように、曖昧な文から相手の意図を推測するとき、私たちが使うのは常識だったり、その場面や相手や文化に関する知識だったり、それまでの文脈だったり
青色のハイライト | 位置: 465 ちなみにここでの「セメント」というのはプロレス用語であり、ルール無用の真剣勝負、つまり「ガチンコ」と同じ意味
青色のハイライト | 位置: 536 これにあまり深入りすると私の身も読者の皆様の身も危険なのだが、「さらっ」と流す方法はいくつかある。その一つが、「は」は旧情報に付き、「が」は新情報に付く(ⅱ) という、「情報の流れ」に従った説明を受け入れることである。これはつまり、「は」が付いたものは文脈の中ですでに現れている情報であり、他方「が」が付いたものはその時点で新規に導入される情報だというもので
青色のハイライト | 位置: 649 自分の中から過去の所属先とか参加プロジェクトとかその他諸々を取り去ってみると、結局「言語学者になるための訓練を受け、博士号を取ったこと」ぐらいしか残っていない、という面はある。 こういったわけで、「どうも~、言語学者で~す」と自分で手を叩きながら出てきては「今日は名前だけでも覚えて帰ってくださいね」と言う売れない漫才師が如き振る舞いを続けているのだが、言語学者を表だって名乗ることにはけっこうリスクもある。というのも、言語学という学問に対する世間的なイメージが、実際とかなりずれているから