イールブランズの田舎町で私は淡々と執筆をしていた。窓辺から入る花々の匂いと、近くの川の旅路の音。鳥の囀りも耳の中を通り抜けていく。 日差しが当たり肌がほんのりと温かくなる。白いカーテンが揺れ、部屋の中に光が溢れ出した。そしてその時時計が鳴る。
《ボーン…ボーン…》 年季の入った低い音であり、秒針はまた1秒を刻むために走り出した。
「…12時だったのか…」 シワだらけの手から万年筆を離し、一休みさせた。改めて紅茶を一口飲んだ後私はそっと原稿に目を通した。
《ルパン 最後の恋》 誰も知らぬ私の伝記シリーズの最後である。女に振り回され、世間を振り回し、人生を遊びとして見ていたかのようなあの男の最後の事件を私は、書いている。 最後の文字にはまだ辿り着かないが、どうしても苦しいとさえ思った。あの男との縁が切れてしまえように感じた。いや、最初から縁など無かったのかもしれない。 彼の気まぐれであり、友人と言っていたがそれも嘘だったのかもしれない。いつの間にか私は共犯者に仕立て上げられていてもおかしくはないだろう。そう,この本を書くことが…というのは本人には言わないでおこう。彼の怒りを買うような真似をしたくはない。それに彼は怒ると子供のように大声を出すのだ。 「早めに終わらせねば。彼が私を急かす前にね。いつ私を監視しているのかわからないんだ」 自嘲気味に笑いつつ、昼飯を食べられるほどの力も既にない私はまた万年筆を手にとった。
イールフランズ中心部の医者からは、残り短いと言われた私の人生だ。まさに彼の本と共に私の人生は終わりを迎えるのだろう。時折,万年筆を滑らし書き連ねるこの行為が私の死というものへのカウントダウンのようではないかと、思うのだ。 そしてその反面、やっと彼から解放されるのだとさえ思う。私が完全に嫌で書いているわけではないが、彼が私を急かすのだからそれが嫌いであった。おまけに指摘してくる。喋り方、事の経緯、気持ちだとか。あぁ、楽しかった。そう、楽しかったのだ。だから私はこの別れが嫌なのだ。 最後のページには彼への嫌味を書いてやろうと何度思ったか。だが、私はこの作品に出てくることさえ億劫であり、ひっそりと見える影でありたい。だから私は敢えて胸の内に秘めておこうと思うのだ。
その日の夕暮れ、私はそっと万年筆を置いた。達成感よりも、今はしみじみと原稿を見つめていた。私の半生とも言えるようなこのシリーズの終わりに何を思うのかと,浮き足だっていたが開けてみれば簡単なことだった。ただ、空虚を感じる。心の中に穴を感じる。心の中の穴を風が通り過ぎ、私はただひたすらに何もないのだと痛感する。 その時、床がわざとらしく軋む音がした。そして椅子を引く…いやこれは元に戻す音だろう。 私は見えないことを祈りながら軽く笑った。どうせ彼には見えているのだろうが。
「ようやく書き終わったのかね?今回はどうやら随分長考することが多かったように思える。僕の活躍の最後を飾る言葉が出てこなかったのだううね!さすがはルセーヌ様!さすがは僕!」 「…まさにその通りだ。君の最後に私はなんと言葉を書くべきか悩んでいた。ただ、君らしい最後であると思う。 いつからいた?私にはサッパリわからないが」 「耳が遠くなったのだね、ルブラン。僕は今回ベルも鳴らしたし、鍵を使ってここへ来ている。…君とも別れの時が今近づいてるようだな」 男、彼、ルセーヌは私の原稿を浅く読みながらそう呟いた。私とほぼ同じ年齢だと言うのに彼の手、顔、話し方、立ち振る舞い全てが若々しい。まるで出会ったあの日から変わっていないかのようだ。もしかしたらわざと私に見せつけるかのように老人の、変装をしているだけなのかもしれない。常にルセーヌのことは疑わなければならない、私の一種の職業病だろう。
「君が鍵を使って、ベルを使って入ったくるとは…もったいないことをしたな。ガニマールに教えるべきだった。今から書き足そうか」 「話を逸らす君の悪癖を今僕に使うか。なら僕は忙しいからね!君がこの家から出ていく時僕は絶対に顔を見せてやらないさ。決して、決してね!」 目の前で彼は怒りを露わにしながらも、どこか悲痛な顔をしている。まるで槍が心に刺さったかのような顔だった。その時だけ、彼の変装とも言える若々しさが無くなったようにみえた。 私はただ、彼を見ていた。立つことさえ億劫になってしまった。今ならば、彼から脅迫まがいの手紙を本の中に入れられなくとも、体を動かすことはしないだろう。それに、家の中を物色されようとも構わないだろう。 彼の手によって机に戻された原稿を見る。やはり空虚を感じる。それを彼は見抜いていることだろう。彼は私の心を読むのが得意なのだ。 「私が深い眠りにつく時には、弟や妻が手を握ってくれるだろう。君の手が欲しいとは思わないさ。それに…君が最後までいると落ち着かないのだよ。警察にまた家を包囲して警備を頼むことになるだろうかね」 「…僕への皮肉かね?」 彼の顔がまたムスッと不満に満ち始めた。今日はなぜか椅子に座らないらしい。私をずっと見下ろしているのだ。
そんな彼の姿に笑いが溢れた。馬鹿にしたいわけではないが、本当に心から溢れた笑いだ。意図せずに出した言葉だったが、そうか、彼には皮肉に聞こえたのか。 「君に皮肉をいうよりも、君を新しい女性と巡り合わせる方がよほど効果的だ。だから私は皮肉を君には言わないね」 「君も性格が悪いな…ガニマールが認めた僕の弱点をここで突いてくるとはね! …この原稿はどうするのかね?」 「さぁ…どうしたものか。実を言うとまだ書き途中でね。終わったには終わったが、不足がある。だから…君に渡そう。君に任せる、何をしてくれても構わない」 実を言うと、出版社にこれを持っていく気が私にはなかった。この怪盗の最後を知られたくなかったのかもしれない。このイールフランズでずっと生きでいて欲しいと、終わらないで欲しいと願っていたのかもしれない。彼にはそんな私のことがわかっているのだろうか。
「なるほど…いいだろう。僕が今君からこの原稿を盗んだことにしよう。僕の最後の盗みは…君の原稿というわけだ」 「これは光栄だ。…すまない、ルセーヌ。私は少し疲れてしまっている、少し仮眠を取ってもいいかね」 これは本当のことだ。少し肺の近くが苦しい。体のだるさが徐々に悪化している。明日には無い命なのかもしれないと、私は悟っている。瞼が落ちそうになる程、細くなった目の中で最後に彼の顔を見た。 …そうか、君はそんな顔をするのか。私は少し、本当に君の友であれたのだと今理解した。 そっと彼が差し出した手に触れ、握り返し肘置きへ自分の手を戻す。そうすれば彼は「おやすみ、ルブラン。僕の特別な友よ」と言い、そっと私の目に触れた。 暗闇の中少しずつ私は深い眠りに落ちた。物音はしなかった…。
翌日、ふと目が覚めれば私は自室のベットにね体を横にしていた。サイドテーブルにはバラが一本飾ってあった。そしてその横には…彼の印が入った予告状が。だが、何も書いていなかった。 そんな朝と、彼との最後であった。