歩兵第四一連隊とは

1896(明治29)年12月1日、第五師団隷下の歩兵連隊として広島で創設。当時は司令区が尾道にあったため、尾道連隊区管内の壮丁(成人男子)をもって編成された。

1908(明治41)年7月20日、日露戦争後の軍備拡張により岡山に第十七師団が新設。歩兵第四一連隊はその隷下に属することになり福山に移転。その後も備後三郡(深安・芦品・沼隈)の所管が変わることなく、福山のいわば「郷土部隊」となった。

アジア・太平洋戦争においてはレイテ島に参戦し玉砕したが、正確な戦没人数がわからないなど不明点も多い。

歩兵連隊移転前の福山と移転後の影響

歩兵第四一連隊移転前の福山町は人口が約一万八千人。工業・商業は城下町の域を出ず未発達の地だった。そこで町当局は、福山の発展のため歩兵第四一連隊の誘致活動を開始。その努力も実って1908年、福山に歩兵第四一連隊が移転することとなった。

歩兵第四一連隊が移転してからの福山は経済発展が著しく上昇しはじめる。もちろん連隊が置かれるからには町の設備も整えられなければならないし、それならば予算もおりる。福山に市制施行がされた要因には、直接的とは言えないものの要因としてこの歩兵第四一連隊のもたらしたものが大きいとされる。

次第に連隊の年間経費が町財政を潤すようになり、福山公営市場の扱う物資のうち15~25%が連隊納入が占めるほどとなった。しかしそれは完全に歩兵連隊への高い依存からおこっていた経済状況である。

ワシントン海軍軍縮会議にはじまって日本も全体的に軍縮やむをえず、各連隊の存廃問題が持ち上がった。

1924(大正13)8月以降、福山ではこの話題で持ちきりとなった。もしも歩兵第四一連隊が廃止されれば、それらに大きく依存した福山市の財政破綻は目に見えているからである。実際すでに連隊に向けた商店の仕入れ規模の縮小など経済活動の停滞が見え始めており、また不況のさなかであることも相まって、市民の中では不安が高まっていた。

翌1925(大正14)年2月、連隊存置運動のため市長らは上京。歩兵第四一連隊を存続してもらうよう陳情した。その成果があったのか、3月に連隊の存置が正式に決定。市民は安堵し、以降戦後まで強い結びつきを得ることになる。

福山と歩兵第四一連隊を振り返って

1979(昭和54)年、福山市川口学区の歩兵第四一連隊追悼集「久遠の□」を編集するにあたって、ネガティブな意見として挙げられていたものが『永遠の四一 歩兵第四一連隊の足跡を訪ねて』に掲載されているのだが、その意見がベクトルは違うだけで願うことは現代とさほどズレていない点にひじょうに興味深く感じたので引用する。

「この平和の世に、あの戦争中の悪夢を思い出させるような事をするな。」

「あの敗戦という苦しみを子孫に繰り返させてはいかぬ。あんな事はすっかり忘れ去られてしまいたい。」