そもそも戦争体験には、長らく「記憶の継承」や「体験の重み」「伝達・表象の不可能性」という言葉が付随してきた。ただし、その人に固有の体験を他者に伝えることの困難さは、なにも戦争体験に限ったことではない。日常的な体験であっても、それを「体験した通り」に他者に伝えるのは、極めて難しい作業だ。振り返ってみれば、私たちは普段のコミュニケーションのなかで、「どのように表現すれば、どの程度まで伝わるのか」「どのように表現してもあの体験は伝わらないとして、では別のアプローチはないのか」というような試行錯誤を不断に行っている。 (中略) 繰り返し強調しておくが、戦争の表現・伝達にみられる試行錯誤は、戦争に限らず、社会的コミュニケーションには必ずついて回るものである。なぜそれを強調するのか。それは日本社会が、「戦争体験の表現・伝達」を「特殊」なものとしてのみ理解しすぎているからだ。戦争体験は現代からすれば間違いなく「特殊」なものだが、「特殊」な体験を振り返って表現・伝達しようという試みは決して「特殊」ではない(また、本書の問題意識からやや逸れてしまうが、戦争を「特殊」なものとして遠ざけ続けていると、現に社会に定着する軍事的なものを視野の外に置くことになりかねない)。
(「はじめに『残されたもの』としての世界」10-11ページ)
戦争体験を「利用できる現在形」に書きなおすという作業は、有名無名を問わず、戦後を生きた人びとが続けてきたことだ。 (中略) 残された者である私たちは、過去の残された者である戦争体験者たちが残した表現に、これまでどの程度向き合えてきただろうか。本書が扱う作品はいわゆる「有名」な表現者たちの手によるものだが、筆者は彼ら・彼女らの表現を鑑賞しなおすことで、戦争を振り返り続けた戦後社会の経験の一端を、明らかにしたいと考えている。
(同上 12-13ページ)