『原爆三十年』より

軍事色の強い都市

当時、福山には暁部隊といわれた船舶砲兵第一連隊・船舶機関砲連隊の両部隊が駐屯し、周辺の大津野村には福山高等航空機乗員養成所、海軍航空隊があった。また三菱電機・日本化薬など市内各所に軍需工場があり、県東部においては軍事的色彩の濃い都市であった。

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昭和19年に「福山市防空医療救護要綱」が作成され、空襲による傷病者の救護機関として、警防団救護班・特設自衛救護班・救護所・救護病院・助産救護所・予備救護所・特殊救護病院・応援救護班・応援看護班・移動救護班などが設けられた。とくに医療救護活動の中心になる救護所は市内の東・西・南・霞の各国民学校に開設され、罹災者の第一避難所には、大念寺・通安寺・安楽寺・泉龍寺・高野山等市内の各寺院があてられることになった。

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6月の空襲とそれを受けての対策

福山に対する空襲は、昭和20年6月からはじまり、市の郊外南東部大津野村(現福山市引野町)にある海軍航空隊への機銃掃射がグラマン戦闘機によってくりかえされた。これに対応して市の防空避難体制も一層強化された。第一次疎開が7月より市内中心部からはじまった。また、空襲をうけたとき市郊外の草戸(稲荷神社・明王院一帯)、本庄(八幡神社・円照寺一帯)、東深津(長尾寺・光明院一帯)、北吉津(新宮社・鞜光寺一帯)、奈良津(艮神社一帯)など5カ所に避難所を設置することにした。各避難所付近に救護所を開設し、炊き出し計画の立案、非常用物資の備蓄など空襲への対応策がなされた。

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