「ナラティヴ」とは日本語に訳せば「物語」という意味になるが、本書では「ナラティヴ」に、もうすこし限定的な意味を与えようとしている。まず、ナラティヴとは、あらゆる事象に与えられる、「このような原因や動機や順序にしたがって、このような一連の出来事が起こりました」という説明である。それは、なんらかの対象について知るための回路であり、「なるほどそういう原因と動機と順序で、そういう出来事が起こったのか」と人が理解するための装置である。ナラティヴとは解釈であり、われわれは、このナラティヴという「窓」を介して対象にアクセスするこのによってのみ、その対象から意味を受け取ることができる。つまりナラティヴとは、知識の形式である。本書ではこのナラティヴという装置に着目するわけだが、ナラティヴに着目するとはつまり、誰がなにをどのように説明し、それによって誰がなにをどのように理解するのか、その知の伝達の次元に着目することを意味する。

ウソだろうと本当だろうと、誰がどのような目的でそのナラティヴを紡いだのか、そしていかにわれわれの認識や思想や感情がこのナラティヴという知識の形式によって左右されているのか、それがナラティヴという次元にフォーカスすることで見えてくる問題だ。

(『ナラティヴの被害学』「第一章 ナラティヴの被害学」10-11ページより)

だがもっと重要なことは、日本の歴史をはじめて学ぶ子どもたちが、その教科書の記述を読んで、まずなによりもアジア太平洋戦争において日本は加害国だったのだという点を確実に理解できるように戦争を語っているのかどうか、過去に日本はものすごく悪いことをしてしまったのだと間違いなく理解できるように戦争を語っているのかどうかである。もしその点が曖昧なままであるのなら─あるいはむしろ日本は被害国だったという印象をもたらしてしまうのなら─たとえその本文や脚注に従軍慰安婦とか強制連行とか南京大虐殺といった文言を盛り込んだとしても、いまわたしが論じている問題は解決しない。

(『ナラティヴの被害学』「第一章 ナラティヴの被害学」18ページより)