酔っているので乱文を書き散らすことをお許し頂きたい。
ここ最近、衆議院選挙の結果に激している。極めて激している。文字通り激している。激しているけれど、ぼくが極めて信頼している友人の発言に恐れ慄いている自分がいる。彼は、人権を踏みにじる政策や候補者を尽く擁護・推薦する政党を支持する人間たちすらすくい上げ、共に生きることを選択しようと試みるのだ。
彼とぼくはどこが違うのだろうか。ぼくは多分怒ることに対する陶酔めいた気持ちを持っているのかもしれない。そうした差別主義者や与党支持者を悪者に仕立て上げて、批判することで自分は正解している、間違っていない、と確認したい側面が少なからずあるかもしれない。でも、それはいかなる解釈可能性があろうとも、どんなスタンスであったとしても、弱い立場にある人達がそのままの構造を受け入れ続けるような社会形態が生まれながらに規定されているなんてあってはいけないし、そういう社会で生まれ育ったマイノリティたちがどういう末路に陥るかは数々のデータが示している。彼は、ぼくよりも極めて優しく、そして、多くの人間を包み込みながら柔らかな形態で、あるべき姿に誘導し、進めることができる手段を取れる人なんだ。
ぼくは、自分と違う主義主張を持つ人がいることを理解しようと努める。けれど、自民党がやっていることを抑えて補い余りあるほどの素敵な政策があるとは到底思えない。でも、もしたら、それだけクリティカルな政策、インフラ整備やら経済政策などがあるかもしれない。でもそれらは数々の人権侵害とも言えるような政策や候補者の擁護を行わなくてもできる。それらは、人権侵害しないこと、人権を守ること、この国で生きていると生きている心地がしないと思ってしまう人間を生み出さないこと、と両立しうるに決まっている。 いくらプライオリティが異なっていようとも、それは絶対に守られるべきことだろうが。あなた達がやっている政策全てに反対し叩きのめそうとしているわけではない。叩きのめしたくなるときもある。でも人権はさ、人権だけはどうしても強い言葉を使ってでも守らなければならないものだよ。 誰かの幸せが誰かの犠牲のよって成り立って良いわけがないんだよ。ふざけんなよ。誰かのことを踏みつけにしていることを自覚していながら踏みつけ続けることを是とし、その枠組を後世まで継続させようとする姿勢って何。ぼくはノブレス・オブリージュがない人は嫌い。全員が嫌いなのではなく、自分の能力が幸運によってもたらされたのではなく自分の努力によるものだと信じて疑わない人が嫌い。
自分にもそういう時代があろうとなかろうと(実際には高校生くらいのとき嫌韓みたいな思想やネトウヨ的思想に賛同しかけていた自分がいることをここに記すことで許されたいと思っている自分がいる)、今苦しんでいる人がいてそれを解消するためであればいかなる手段であろうと取ることを辞さないくらいの気持ちでいる。それは過去の自分に対する懺悔であり、自分は少なからず価値観をアップデートすることに固執しつつもそれを続けられているという自負があることを示したいのかもしれない。 ろくな補償をせずコロナ禍で苦しむ音楽関係者を救うためにテロを起こそうと画策する「アンソーシャル ディスタンス」金原ひとみ の中の登場人物たちを思い出してしまう。
ろくなコロナ対策も実施せず、補償もせず、国民に数々の苦しみをもたらし、差別を撒き散らしているのにのうのうと当選しやがる人間たちがどうしても許せない、それはぼくの器量が狭いからなのか? どうして? みんなあの閉塞感や怒りや、補償がされないことに対する絶望的な憤怒の気持ちはどこへ失せたんだよ。ワクチンが普及し、自体が収まったら危機管理能力のない政治・政権がやってきたことは免責されるのか? 本当に意味がわからない、同性婚も、選択的夫婦別姓も、何もかも、”古き良き”伝統なんて極めて意味のない時代遅れの産物でしかないものにすがりついて生きている醜悪な日本人共よ、思考停止している日本人共よ本当にぼくはここから出ていきたいと持っている、それくらいの覚悟を伴う選挙結果だったし、それくらい自分の無力感を感じたし、消えてなくなりたいと思った。 こんな国家とは金輪際関わりたくないと思った。思ったし思い続けている。のうのうと政治家を続ける差別主義者たち、どれだけ言葉を連ねても届かない、自分の思いは届かないという絶望、それを見せつけるだけ見せつけられて、極めてうんざりしている。もうだめだ~