海街diaryを見た。3度泣いた。
「宝物なんかじゃないですよ、わたし」
「あたしここにいていいのかな」 「何いってんだよ、お前」 「仙台にいるときも、山形にいるときも、ずっとそう思ってた」 「あたしがいるだけで、傷ついている人がいる」 「それが、時々苦しくなるんだよね」
「お母さんのバカ」
生きていることに対する肯定のゆらぎ。 自分は存在していてはいけないのだ、と思い馳せるときのしんどさが蘇る。
宝物だね、と言われて、明確に否定する。曖昧に感謝の意を述べたり、はぐらかすことはいくらでもできる。でもそうしない。宝物なんかじゃない、とコンパクトに答えるすず。自らは祝福される存在ではないのだという自覚と意思表示。
画面の中で、明らかな形で、お前は生きていてはいけない存在なのだ、と糾弾するわけではない。でも、でもそこにある空気が、雰囲気が、ゆるやかにお前は生きているだけで他者を傷つけうる存在なのだと語っている。それを敏感に察知し、内面化してきたすず、対処するために、うまくやるために、おとなになることを強いられてきたすず。
一緒に暮らす姉たちは、優しくしてくれる。優しくしてくれるのはなぜか。
複数の人物をあえて登場させず、登場人物たちに語らせている。それによって浮かび上がる存在。不在の存在を描いている。思い出すのは「桐島、部活やめるってよ」と坂元裕二。
https://twitter.com/nishi_hy/status/1364911188723724294?s=20
エッセイで読んだ通り、本当に誰も断罪しておらず驚いた。断罪しないことが何を意味するのかについてもまたゆっくり考えて文章にしたい。他の是枝監督の作品を見たらまた新たに思うことが出てくるかもしれない。
映画を見ることは、ぼくにとって習慣化された行為でないし、日常的な営みでもない。非日常的な営みだと思う。でも、どうやら映画を見ることは、ぼくが小説を読んだり、漫画を読んだり、音楽を聴くことでやりたいことと同様の枠組みで説明できる営みらしい、ということが最近わかってきた。
小説を読むこと、漫画を読むこと、音楽を聴くこと、つまり作品にふれることで、ぼくは知らない世界を知りたくて、揺れたいのだった。
https://twitter.com/nishi_hy/status/1352869875056660481?s=20