今日はコンセプトやテーマを決めずに書く。とかいってコンセプトもテーマも浮き出てしまうかもしれない。 書き終わったあとに冒頭に追記しているが、結局教師について書いた。

ジムに行くとき、自宅の周りに生えていたガードレールが根こそぎぶち抜かれていることに気がついた。少しだけ物悲しい気持ちになっている。 年度末や予算の締切が近づくと、何の意味もなしに道路やガードレールが掘り返され、謎の公共事業が多数実施されるらしい。と中学の時にたまに教えに来ていた大柄で威圧的な公民教師が話していたのを思い出した。業界関係者めいた気配を醸しており、教科書に書いてあることをただただなぞるだけの板書をする何の面白みもない授業をする先生だった。でも威圧的だったので、この先生の言うことは聞かなければならない、と思っていた記憶がある。なんだったのだろうあの先生は。

人に教えるということの意味を深く考えていない人間が教師になっているのでは? と思ってしまう記憶が多い。自分の学生時代を振り返ってみると。 全ての教師の方々がそうだと言っているわけではない。自分が出くわしてきた教師の方々がたまたまそうなだけかもしれない。教師の待遇が良くなく、意味のわからない理不尽な部活動による搾取がはびこっていることは問題だと思う。そういう法律に反していると捉えられるような仕組みや制度がはびこっている労働環境が許されてよいはずがない。

教えることを無知な人間に対して自分の思想を植え付ける行為だと思っている極めて悪質な人間もいるが、そういう人の数はあまり多くないのかなとも思う。 ぼくは体育教師が極めて嫌い(苦手)なのですが、その話はちょっと今日の気分とは違うのでツイートを貼り付けるだけにしておく。

https://twitter.com/nishi_hy/status/1414965287687004162?s=20

自分にとって教師というと、部活動の顧問の先生が一番印象に残っている。自分が中学生の時は当然と思っていたけれど、部活の顧問の先生にも人生があり、自分の時間が当然必要であったはずだと思う。 ぼくたちの青春ともよべるあの素敵な時間は先生の時間を、人生を消費する形で担保されていたのではないかと思うと胸が苦しくなる。自分にとっての楽しい記憶が、誰かの犠牲によって支えられていたのかもしれない。そう言葉にすると胸がきゅっと苦しくなって、自分がこれまで拠り所にしていたものがすごく不安定なものに思えて、なんだか咎められている気がする。咎めているのは先生の気持ちが想像できるようになった自分だ。これまで先生の人生を消費していることに気が付かず思い出を楽しいものとしてのみ捉えていた自分だ。

顧問をしてくれていた先生がどう思っていたかは、本人にしかわからない。でも、成長した、大人なった自分から、感謝と懺悔は伝えたい。加えて、教師に対する搾取を許容する制度設計をしている学校教育の問題についてちゃんと知識をインプットした上で、こんな社会でごめんなさい、と謝れるようにならなければと思う。

大人になってみると(大人の定義が自分の中で定まっていない中でこの言葉を使うことにはやや抵抗があるものの、中学生の頃の自分からすると遥かに「大人」になっていることは紛れもない事実であると思うのでここでは大人と表現させていただく)、自分に対していろんなことを教えてくれていた大人にも人格や立場や葛藤があったということがよく分かる。 中学時代の同級生が小学校教諭をやっていたりするのを見ると、小学生の時神様みたいに思えていた教師たちも普通の人間だったのだなあとしみじみする。

教えることって怖くないですか。ぼくは怖いです。自分のふとした一言が柔らかくて、多感で、人生の中に深く刻まれてしまうかもしれない子どもたちに吸い込まれていくことを生業にするって怖くないですか。ぼくは怖いです。 影響力を持った立場の人間として生徒に対し、何年もの間、一人の人間として対面し続けるのってしんどくないですか。ぼくにとってはしんどいです。

違国日記の槙生ちゃんもそう言ってます。 違国日記サイコーだからみんな読んだほうがいいよ。

https://twitter.com/nishi_hy/status/1413116433010073605?s=20

教えるってしんどい。他人と向き合うってしんどい。しんどい行為なんだけれど、そういう行為を仕事にしようと思ってくれる方々がいるからこの社会は成り立っている。 ありがとうと思う。

おそらく、ぼくにとってしんどい行為が誰かにとっては楽しい行為で、ぼくにとっての楽しい行為が誰かにとってはしんどい行為なのだと理解している。 でもその分からなさがあるから世界はうまくいってくれているのかもしれない。うまくいっていないけれど、うまくいっていると思い込もうとしているだけかもしれない。 そこに搾取や理不尽な制度設計が埋め込まれており、それに気が付かずにいる自分がいるのかもしれないと思うとすごく怖い。 でも文章を書くことは意見を表明することでもある。 表明した上での批判は丁寧に受け止め、その批判をもとに自分の価値観を強制的にアップデートする場を設けねばとも思う。 もしこいつ何いってんの? 踏みつけてんじゃねーよと思ったら教えて下さいね。

世界にぼくみたいな人間が溢れていたら破綻するなと思う。

人に何かを教えたり、人がわからない気持ちに寄り添ったり、自分の時間や人生を削ってでも部活動に協力したり、叱ったり。 ありがとうという言葉では語り尽くせない。あの経験は。あの数年の経験はぼくの人生の中で核になっている。