2022年9月24日、つまり今日からみて昨日、原宿で髪を切った後に久しぶりに青山ブックセンターへ行った。お目当ては中村一般さんの新刊『ゆうれい犬と街散歩』(中村一般、TWO VIRGINS)サイン入りがABCにあるっていうツイートを見かけた気がして、確かめればいいのにたぶんそうだったという意気込みで閉店45分前に駆け込んだ。

新宿は好きなんだけれど、原宿も渋谷も苦手なのでABCは本当に久しぶりだった。なんなら人生で3回目くらいでもある。

そもそもなんでそれが目当てだったかというと前作の『僕のちっぽけな人生を誰にも渡さないんだ』が大好きだったからで、『ゆうれい犬〜』のWeb連載は読んでいなかったんだけれども、書籍化ではやく読みたいになっていた。

僕も散歩が好きだ。といっても、日中は目的地に向かってすたこらせっかちしているから、以外と日中は散歩になっていない。けれど、夜中の散歩は良くする。夜中だから、視界よりも匂いの情報がたぶん昼間より強い散歩を僕はしている。だから、前作『僕の〜』の時は日中の眼差しのある景色がとても素敵に感じた。『僕の〜』を読んでから、少し日中の外出が散歩になった気がするし、その時にどういう風に街を見るか、という僕の行動は少なからず『僕の〜』の描写に影響されている気がする。中村一般さんはあんな風に街を見ていたなふむふむこんな感じかなみたいな。

あとそもそもでいうと、ひとりで散歩するっていうのがなんか安心感だった。ここにもひとりのひとがいるっていうので安心感はなんかちと違うなとも思うんだけれども、それでもなんかそういう、なんていうかな、他者が生きているんだみたいな。

『僕の〜』は、loneliness booksのオンラインストアで買って、たまたまサイン本だった。背表紙の内側?にあるサインには人間と犬(ゆうれいじゃない)がいて、『ゆうれい犬〜』もサイン本でこちらは表紙の内側?に人間と犬(ゆうれい)がいて、なんかよかった。

2冊のゆるいつながりでいくと、『ゆうれい犬〜』の新代田の”すごく素敵な休憩スペース”は『僕の〜』の終盤で出てきたあの場所かなでいつか僕もそこで休憩(一服)してみたいなだった。

『ゆうれい犬〜』は前作よりもひとりって感じがあるけれど、イマジナリーフレンドとしてハナちゃん(ゆうれい犬)が居て、なんかそれはそれですごいよかった。描かれていることと会話されることで純粋に異なる情報だったから。別にどっちがいいとかではなく、どっちもよかった。

街々それぞれで好きな描写、好きなやりとり(「私」とハナチャン)があったけれどそれは僕の手元のクロッキー帳(メモ帳)に書き留めているので省略。街へのまなざし、「私」の思い、それぞれで、今の僕の中でもむやむやしているものに近いものがあって、奥多摩のダムを見ながらの部分はほんとうにそうで、ドトールでひとり涙が止まらなかった。

読んでないと伝わらないことなんだけれども、「たにんのためにできること」とか「たにんと生きていくこととか」とか、僕は苦しくて楽な方に寄りかかっちゃう節があって、でもそれが書かれてちょっと勇気づけられたとも違うけれど、でもなんかそういう感じでたぶん涙が出てしまった。僕も頑張れる分は頑張ってみたい。

あと、中村一般さんはTwitterでトランスジェンダーのこととか、nowarとか、インボイスのことをツイートしていて、それを見て正直僕は安心してしまった。安心してしまったというと、余計にそれをしてくれる(≒できる)人にそれをさせてしまいそうでそれは本位ではないんだけれども、好きな作品の作り手がそうだとやっぱり安心してしまう。僕の好きな折坂悠太や下津光史、マヒトゥ・ザ・ピーポーとかも。安心して音楽が聞けてしまう。

ちょっと話が飛んでしまったけれど、『僕の〜』と『ゆうれい犬〜』に共通して僕が好きだなの感覚は、柔らかい死の気配があるからかもと現時点では思っている。僕にとっては植物も、人の居た/居るもしくは痕跡があった街にも共通して柔らかい死の気配を感じる。ハナちゃんが幽霊なのもかもだけど、それ以前にその雰囲気があって落ち着いてしまうのかもしれない。僕は真夜中の街も好きだし。でもそう書いて思うと、ダムとか座れる場所が少なくなっていく街(排除ベンチなんて以ての外)は硬い死の気配というか、僕が拒絶したい死の気配でその対比というか真逆の温度感なんだと思う。

よく分かんない感じの感想になってしまったけれども、暑い夏はとっくに終わってしまったようなのでこの夏に陽に浴びることのなかった僕の身体を秋の空気に触れさせようかなあと思う。