齊藤学一 プロフィール 北海道出身で、62歳。1983年(昭和58年)苫小牧高専・「化学科」を卒業し、サラリーマン生活を1年で辞め、生活の為土木作業員を経験、土木の仕事に魅了され、土木屋で生きることを決意し、勉強不足を補うため先ずは、高専の「土木課」卒で有れば得られる「測量士補」を、昼の土木作業員後の「2年間の夜学」で取得し、**【土木屋人生】のスタートをきった。

20代の約10年間は、 東京都の下水道普工事が主で、日中は下水道工事、夜間は水道工事(断水の為、夜間施工)、365日・24時間臨戦体制で「現場宿舎」に住み、休日も2週間に1日程度という異常な生活を過ごした。 その理由は、先輩とゼロからスタートで「建設会社を設立」し、二人だけで年間1~数億円の下水道工事を「一括請負」を始めたためで、 地方ではありがちな、【職長+重機オペレーター+現場監督+現場管理(主任技術者・現場代理人)】を全て兼務 先輩は鳶の親方上がりで現場のみを担当、私は先輩のやれない業務全てが業務内容。 私の担当業務:0.4m3~ミニまでのバックホー・5tレッカー・ユンボバイブロ(LHV)等重機オペレーター兼運転手で出来高を上げることがメイン業務。 更に経営者側・管理者側の立場から現場を進め、作業員の指示、現場管理・進捗管理・住民対応・苦情対応から、施工計画提出、現場の写真撮影・出来高書類整理から竣工書類まで全てをこなさなければならず、徹夜続きで検査書類作成⇒検査⇒合格後のバカ飲み⇒1週間寝込む!の繰り返しでした。 とにかく「一括請負」なので人間は、どこまで睡眠不足に耐えられるか?どこが、体力・能力の限界か?を経験し、自らも現場で死にそうな経験と、判断の間違えや重機の操作ミスなどで作業員を殺していたかもしれない経験し戦争を知らない世代ですが、戦争体験に近い経験をした気がしています。しかし、幸いにも死亡事故には一度もかかわったことがなく、ほこりの一つではあります。 これらの作業員~管理までシームレスに行った経験が「土木屋」の血となり肉となり、今でもバックホー(ユンボ)の操縦は誰にも負けない自信が有りますが、双方の当事者になりきれることが私の強みだと感じています。 この会社を先輩に委ね、その後

30代の約10年間は、 ご縁を頂いた大手道路ゼネコン東亜道路工業様の「契約社員」として、社員の皆様の得意な「道路以外」の工事の担当者として空港・高速道路・国道・外構などの現場で、橋梁・薬注・推進・杭打ち特に現場測量の担当として様々なを体験させていただきました。 初めの10年の下水道工事の請負で「土木の現場」を覚え、次の東亜道路工業様の施工管理で「組織と管理」を教えていただき、私の「土木屋」の骨格が形成され、東亜道路工業様には非常に感謝しております。 次に「マナブ測建」という屋号の測量会社を立上げ独立し、主に足立区の地場ゼネコンの施工管理・測量を行っていましたが、

18年前、44歳で人生を左右する大きな出来事が3つもほぼ同時に起こりました。 一つ目は、早産による超未熟児の次男を授かったこと。 二つ目は、東亜道路工業様からのご依頼で、竹中工務店様の六本木ミッドタウンの外構の施工管理に参入させていただけたこと。 三つ目は、上記の現場の経験を変われ、竹中工務店の一次業者としてユタカ工業という建設会社を設立できたこと。 です。 一つ目は、せっかちな次男は、24週700g程度でこの世に誕生し、約半年間生命の危機と戦い、幸いにも命をつなぎ留めましたが、「全盲・全ろう」目も見えない、耳も聞こえない、障害が残り、「光・音」の情報が一切入らないため自力で生き残ることは考えられません。 したがって、私の生涯目標は「親亡き後を想像し、創造する」「私の死後を整える」こととなりました。 二つ目の、ミッドタウン外構の施工管理で【設計CADと現況測量を重ね現場を管理するメリット】**を知り、今のBIMCIM解決研究会の活動・建設DXの推進に繋がっていきます。顧問先キーノスロジック社の「汎用CAD上の土木監督向け安価なアドオンソフト」のご提案・ご支援などが良い例です。 三つ目は、無茶な請負の経験と人脈で、当時圧倒的に不足していた「ガードマン」「施工業者」さらに「施工管理員」まで必要なニーズに答え、次々に準備しご提供し続けた所なんと、外構トップに気に入られ、ミッドタウンの現場事務所内で会社を設立し、最初の請求先が「竹中工務店」直接という業界的にあり得ない体験もさせて頂きました。 その後、ユタカ工業は、「建設会社」として東京都の住宅外構工事、マナブ測建は、「測量会社」として北区の測量業務を、元請けとして受注し、両社を経営しながら、東京都の能力開発センターという学校の測量設計課・土木施工管理の授業を非常勤講師としてを受け持ち、後輩の育成にも寄与して、「土木屋」として順調に進めてきました。 しかし、そこからどん底に落ちます。 転機は、東北大震災です。 土木屋として、国民として、「困ったを救う」という意気込みで会社の軸足の半分以上を「除染」に移し、福島の地元ゼネコンの仕事を請負ったのですが、私の考え・認識の甘さから「契約の罠」に近い経験をし、すべてを失う経験をいたしました。 かろうじて倒産を回避し、建直しを誓いながら、私の使命「親亡き後」は、あきらめるわけにはいかないため、土木屋として、いずれ必ず訪れる東北の以上の大震災に備えることを決意し、9年前の2015年に【一般社団法人 CIM解決研究会】を立上げ、活動を始めました。 会では毎月1回のセミナーを開催し、2015年5月から2020年1月まで、ゼネコン・ソフトメーカー・建設コンサルタント・測量会社など最先端技術や最新情報をご講演頂き、お伝えする役割を担い、畑違いの学科を卒業後、一貫して「土木屋」の道を邁進し探求してきました。