第四次ルーレット戦役(だいよじ―せんえき)とは、新世界暦1448年から1456年にかけてマーベチック王国とその衛星国のスターブス、レッドランドとルーレット共和国・ゴルモア帝国との間で行われた大規模戦争である。

概要

マーベチック領ゾルドをルーレットが攻撃したことから始まり、戦争初期はマーベチックが優勢で一時期はダラス近郊まで迫ったがそこで膠着状態に至る。1452年にゴルモアが参戦すると戦況が変わり1453年にゾルド、スターブスが陥落、1454年にはユヒガが陥落、1455年にドノリが陥落しマーベチックの敗北が決定的となる。 1456年1月ナーザダリ降伏、一部がバリバリック諸島へ逃れ抵抗するが同年5月に降伏。 これにより第四次ルーレット戦役は終結した。

ナーザダリ万博

第四次ルーレット戦役の直接の引き金はマーベチック王国によるゾルド租借地の返還拒絶という趣旨の発言をナッター首相が声明として発表したナッター声明であったが、間接的には第三次ルーレット戦役により領土の大半を喪失し、ゾルドと旧王都であるユヒガを奪還するためにルーレットが立てていた作戦がそのまま大戦へと繋がったという見方が強い。とは言え国民レベルでは1440年台の半ばまでは戦争が始まるという危機感もなく、1444年に開かれたナーザダリ万博の前後ではむしろ2カ国関係はビザ緩和などを通して良好ですらあった。しかしながらこの仮初の友好関係も万博の閉幕とともに徐々に悪化していくことになる。

開戦前夜

第四次ルーレット戦役の引き金となったゾルド租借地は第三次ルーレット戦役によって得たものであるが、当初は50年の期限付きであった。 しかし、これを1350年にマーベチック王国は租借期限を99年間延長するゾルド修正租借協定を強引に結ばされ、租借期限は1449年までとなった。 ところが1446年末にマーベチック王国首相ナッターはゾルドは既に150年間支配下にあり、主権は我が手にあるとして、返還を拒絶する旨の声明を発表する。 これに対してルーレット共和国は猛反発し、条約を無視する場合は自由行動もやむなしとの声明を出す。これにより2カ国関係は急速に悪化し、47年には国境が封鎖、48年には国交の断絶にまで至った。 1448年9月にはゾルド租借地とマーベチック本土を結ぶ回廊区間をルーレット軍が実力で遮断、これに対しマーベチックも軍を出し、一触即発となったが、この時は回廊が開放され、一時的な危機は脱した。 そして1449年11月21日、ルーレット軍のゾルド侵攻によって第四次ルーレット戦役は幕を上げることとなった。

ゾルド陥落

ほぼ奇襲に近い形として行われたゾルド侵攻は、マーベチック軍の不意を付く形となり、ゾルドは特に激戦もないままに陥落してしまう。これには条約によりゾルドに少数しか軍を置けなかったことや、そもそもゾルドは四方をルーレットに囲まれた租借地であるために、ユヒガから援軍を送れなかったことが大きい。 戦争は勃発したが、国民感情としては、この戦争はせいぜいゾルドを巡る戦いであると認識しており、この段階では両国とも「ゾルド紛争」と呼称しており、この段階では地域紛争の域を出ないものであった。

アムルト攻勢

一旦はゾルドを陥落させてしまうものの、その後マーベチックは反転攻勢に撃って出て、1450年の4月にゾルドを奪還、更に進軍を進め1450年8月にはバカラを占拠 マーベチック側はこの段階で講和を考えていたが、マゼラ陸軍大臣の「この段階での講和はゾルドの維持は出来ない。第三次戦役のように一度首都を陥落させなければ難しいだろう」との発言により、戦前の国境を超えてゾルドからアムストへと進軍することとなった。 その後も首都であるダラスに向かって軍を進めるもの、1451年の初頭にはルーレット軍もダラス近郊に数百キロに渡る強固な塹壕を築き、膠着状態へと陥ってしまった。その結果戦争は予想以上に長引き、1452年の夏まで膠着状態が続いたのであった。 この間約1年に渡りダラス近郊の塹壕より撃たれた大量のカノン砲と爆撃機による爆撃によって、ルーレット共和国首都ダラスは火の海と化し、これがルーレットを総力戦体勢へと移行させたと言われている。

ゴルモア参戦

1452年8月19日、ゴルモア連邦が突如としてマーベチック王国に対し宣戦を布告した。 これは1451年末に結ばれたルーレットとゴルモアの秘密協定が絡んでくる。 協定の内容としてはゴルモアがマーベチックに対し宣戦し、ダラス近郊の膠着状態を打破すると共にスターヴスを占拠し、ユヒガ奇襲への基地とすることが決められた。 参戦の対価としてゴルモアに対しスターヴスの割譲と、ゾルド鉱山で産出したゲリウムの内15%を30年間贈与することなった。 ゴルモア連邦としても領土欲・資源欲の他に安全保障上の意味でマーベチックがルーレットを併合し、超大国化することを恐れたためであると考えられている。 ゴルモアの参戦により、予定通り膠着状態は徐々に解けてゆき、1452年の12月にルーレットはゾルドの奪還に成功する。また1453年の5月にはバカラの奪還にも成功した。これによりマーベチック軍は大きく後退を余儀なくされる。

スターヴス攻略戦

一方でバカラの北200kmに位置するスターヴスは名目上は独立国であったが、事実上はマーベチックの衛星国と化していた。スターヴスは独立国として中立を宣言していたものの、同盟国側は傀儡政権とみなし、1453年の3月に一方的な上陸をする。そのため、スターヴス、マーベチック合同での防衛戦を繰り広げたものの、スターヴスがそもそも小国であることや、マーベチックもゾルド防衛のために本格的な防衛軍を派遣することが出来ず、それでも約半年ゲリラ戦を含めての抗戦を続けたものの、1453年の9月に全土を占領されてしまった。

ユヒガ陥落

戦線がユヒガに迫る中で同盟国軍は突如ユヒガ南西のノザーランドに上陸作戦を展開した。ノザーランド周辺は険しい海岸が続き上陸が困難なため、更に西方のカムから侵攻すると踏んでいたために予想外の奇襲となり、上陸は成功した。このためユヒガ市は東西から挟まれる形となってしまい、大都市ゆえ維持が困難なことからマーベチック政府はユヒガを放棄。1454年8月、全くの無血ではないが小規模な戦闘のみでユヒガは陥落した。

ドノリ攻防戦

ユヒガ陥落から1ヶ月後の1454年9月22日、同盟国軍より降伏勧告としてニコシア宣言が発せられた。内容は第三次戦役以降獲得した領土(ドノリ以北・バリバリック諸島)の放棄・陸海軍の解体・占領軍の一定期間駐屯など到底受け入れられる内容ではなかった。マーベチック政府はユヒガを安易に放棄して国力を大きく低下させた反省を踏まえ、ドノリでは徹底抗戦の構えを見せた。ドノリ市街地は徐々に要塞化が進められたが、1454年11月18日にはルーレット空軍によるドノリ大空襲が発生し、市街地は大きな損傷を被った。 その後も散発的に空襲は繰り返され、1454年12月頃よりドノリ周辺の包囲が進められ、徐々に包囲戦が開始された。その後も周辺地域が徐々に陥落しつつも南方の補給路だけは確保したため完全な孤立は避けられたものの、1455年8月に一大攻勢が始まりドノリ市街戦が始まった。この戦いにより戦前には300万もの人口を持ち芸術・文化の都と評されたドノリ市は完全なる廃墟と化した。一連のドノリ攻防戦での死者は両方合わせて80万人程度と推察されている。

ダルノー侵攻